美容師はキャリアウーマンの先駆け
谷崎潤一郎の名作『細雪』は昭和十年代の芦屋に住む薪岡(まきおか)家の四姉妹の物語だが、この小説に井谷(いたに)という美容師が登場する。
神戸の一流ホテル、オリエンタル・ホテルの近くに店を持つ。薪岡家の姉妹たちの行きつけの店。「神戸では相当鳴らした美容院」とある。
一流の美容院だから客には芦屋あたりに住む上流階級の女性たちが多い。井谷の美容院は彼女たちの格好のサロンになっている。現代の浮世床である。
顔の広い井谷は薪岡家の三女、雪子の見合いのために奔走する。そしてついに華族のいい青年を見つけ出す。家庭夫人と違って社会に出て働いている美容師は、女性社会のなかで重要な役割を果たしていたことが分かる。
市川崑監督の『細雪』(83年)は、横山道代がこの美容師を演じている。吉永小百合演じる雪子の見合いをお膳立てする。
井谷は苦労人で、中風で寝たきりの夫を抱えている。美容院を経営しながら二人いる弟のひとりを医学博士までさせ、娘を「目白」(現在の日本女子大学)に通わせている。現代風にいえば、さっそうたるキャリア・ウーマンだろう。
『東京物語』の杉村春子も夫(中村伸郎)はいるが、夫のほうはいかにも「髪結いの亭主」で影が薄い。食事の時など妻に「あんた、それ取って」と完全に尻に敷かれている。
戦争未亡人の自立を支える仕事
戦争中、禁止されていた美容院は戦後になって復活する。
成瀬巳喜男監督の『女の歴史』(63年)の高峰秀子演じる主人公は、自由が丘の商店街に小さな美容院を持っている。
彼女は戦争で夫(宝田明)を失っていて、戦後、一念発起して資格を取り、美容師となった。
同じ成瀬巳喜男監督の『おかあさん』(52年)では中北千枝子演じる戦争で夫を失った女性がやはり美容師になろうとしている。
吉行あぐりは、終戦後、師の山野千枝子から「戦争未亡人の自立を助けるため施設を世田谷に作るのでそこを受け持ってください」といわれ、その仕事を始めたという。当時、美容師を目ざす未亡人は多かったのだろう。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。