戦後生まれの野球漫画に描かれた父と子のキャッチボール
戦後、プロ野球は大人気になる。赤バットの川上や青バットの大下がヒーローになる。それに伴って子供たちのあいだでも野球は以前にも増して人気スポーツになる。
井上ひさしの長編『下駄の上の卵』(「たまげた」の意)は、終戦後の昭和二十一年に、山形県の田舎町に住む小学生の男の子たちが、憧れの白い軟式ボールを求めて東京へと旅する野球小説。
モノのなかった終戦後のこと、子供たちは、里芋の茎をくるぐる巻いて作ったボールと丸太を削ったバット、それに軍手をもとに作ったグローブで野球をする(さすがにそれでは満足に野球が出来ないので、本格的なボールを求めて東京へと冒険の旅に出る)。
この子供たちが野球をする場所がやはり原っぱ。鎮守の森の横にある。「公園という名は冠せられているけれども、新山(しんざん)神山なる鎮守の社(やしろ)のいわば前庭のようなもので花壇ひとつないただの原っぱだった」。
この原っぱが子供たちの野球場になる。小さな町だが、少年野球チームが十近くある。だから日曜日になると、この原っぱが奪い合いになる。終戦後の野球人気をうかがわせる。
その人気を受けて、戦後、野球漫画が生まれた。最初の野球漫画は、月刊誌「漫画少年」の昭和二十三年一月創刊号から翌年の三月号までに連載された井上一雄の『バット君』。私などの世代には懐かしい。
バット君こと長井抜十君は野球好きな小学生。東京の小さな町に住んでいる。お父さんはお医者さん。バット君はちゃんとユニフォームを着て野球をする。
家の近くには原っぱがある。そこでお父さんとキャッチボールをする。親子が原っぱで野球を楽しむ。長い戦争が終わってようやく平和な時代が来たことの嬉しさが野球にあらわれている。
原っぱでする野球で困るのは、外野手を超えたボールがしばしば草むらに消えてしまうこと。補欠のバット君がこのボールを探す役になる。
原っぱでも空地でも昭和の子供たちは遊び場を見つける名人だった
原っぱの定義は難しい。工場の空地、宅地用の売地、資材置場、屋敷あとなどなど。まだ満足に公園もグラウンドもなかった時代、そこが子供たちの野球場となった。
黒澤明監督の昭和二十二年(1947)の作品『素晴らしき日曜日』にも原っぱの野球が出てくる。貧しい恋人たち(沼崎勲と中北千枝子)が、ある日曜日、いまふうにいえばデートをする。東京のあちこちを歩く。町の原っぱで子供たちが野球をしている。それを見て沼崎勲演じる青年は仲間に入れてもらう。原っぱの野球が戦後の明るさをあらわしている。
成瀬巳喜男監督の昭和三十五年(1960)の作品『秋立ちぬ』は、銀座の隣り、新富町あたりを舞台にしている、もう家が建てこんで来ていて満足な原っぱがない。
仕方がないので子供たちはネット塀を乗り越え、駐車場に入り込んで野球をする。といっても狭い場所だから三角ベース(懐かしい!)。おまけにすぐ警備員に見つかって怒られてしまう。この頃から、次第に原っぱが消えていった。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。