文学青年も恋人たちも通った名曲喫茶
昔はレコードもプレイヤー(昔の言葉で言えば電蓄=電気蓄音機)も値段が高かった。
そこで登場したのが主としてクラシックのレコードを聴かせてくれる名曲喫茶。すでに戦前からあった。
大正三年、東京の下町生まれの作家、久鬼高治の青春回想小説『雨季茫茫』(朝日書林、93年)には、昭和のはじめ、亀戸にあったクラシックレコードを聴かせる喫茶店に、文学青年たちが集まる場面がある。ベートーヴェンを聴きながら文学談義をする。昭和十年ころの話。この時代からもう名曲喫茶があったか。
確かに昭和十六年の松竹映画、大庭秀雄監督の『花は偽らず』を見ると、若い学者、佐分利信が、本郷あたりの喫茶店に入ると、電蓄からモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が流れてくる場面がある。
昭和十年代はこういう名曲喫茶が流行したという。
CDやプレイヤーが普及した現代では名曲喫茶は次第に姿を消しているが、昭和二十八年に公開された映画林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の『妻』には、銀座にあった有名な名曲喫茶「らんぶる」が登場する。
妻(高峰三枝子)と倦怠期にあるサラリーマンの上原謙が、同じ会社でタイピストとして働いている未亡人の丹阿弥谷律子と心惹かれ合う。
ある昼休み、ふたりは「らんぶる」に行き、コーヒーを飲む。室内にヴァイオリンの曲が流れる。「この曲、ラロの『ヴァイオリン協奏曲』、私の大好きな曲なんです」。上原謙はそんな丹阿弥谷律子にいよいよ惹かれてゆく。名曲喫茶は大人の恋が生まれるところでもあった。
喫茶店が輝いていた時代、小さな喫茶店を持つのが夢だった若い世代がいた。
黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』(47年)。貧しい恋人たち、沼崎勲と中北千枝子が焼け跡で語り合う将来の夢は、おいしいコーヒーとケーキを出し、そして蓄音機のある喫茶店を持つこと。喫茶店は平和の象徴でもあった。
JASRAC 出 1207646-201
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。