下駄といえば江戸時代の歌人で俳人である田捨女が詠んだ「雪の朝二の字二の字の 下駄のあと」の歌の情景が浮かぶ。現代の靴ではこの情緒は望めない。道路が砂利道からアスファルトの舗装が広まるとともに下駄の需要も少なくなったようである。天気占いや下駄飛ばしといった遊びをする子供たちもいない。下駄を履いたバンカラ学生の姿も遠い昔だ。下駄箱もいつしかシュークローゼットと呼ばれるようになってきている。「下駄を預ける」なんて言葉も、そのうち変ってくるのだろうか。いつのまにか下駄は、正月の着物や浴衣を着たときに履く特別なものになってしまった。
鼻緒のすげかえが懐かしい
町を下駄で歩いたころ
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2013年4月1日号より
荷風と林芙美子の下駄
散歩随筆の嚆矢とされる永井荷風『日和下駄』(大正四年)の冒頭にこうある。
「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘(こうもりがさ)を持って歩く」。
『日和下駄』には、着物姿で「蝙蝠傘」(洋傘のこと)を持ち、「日和下駄」(歯の低い下駄)を履いている自身の絵が入っている。荷風は明治から大正にかけて東京の町を下駄を履いて歩いていたことが分かる。
『放浪記』(昭和五年)で知られる林芙美子は、昭和六年(1931)にパリに出かけ、約半年間滞在したが、パリの町をしばしば着物で下駄を履いて歩いた。
「下駄で歩いた巴里」という随筆(昭和七年)で書いている。
「買物に行くのに、塗下駄(ぬりげた)でポクポク歩きますので、皆もう私を知っていてくれます」
身長百五十センチもない小さな日本人の女性が着物に下駄でパリを歩く。庶民的な店で買物をする。カフェに入る。さぞ目立って、町の人々に親しまれただろう。カフェの主人は一度で彼女を覚えてしまい、二度目のときは「ボンジュウル、マドモアゼル」と愛想よく声を掛けてくれる。「何となく落着いて嬉しい気持なり」。いつもの下駄でパリの町になじんでいる。
下駄の似合う女の子
昭和十年生まれの作家、演出家の久世光彦は「下駄」という小文(『昭和恋々』清流出版、98年)で少年時代を思い出している。
「私が中学に入ったのは、昭和二十三年、新しい憲法が公布された翌年だった。生徒の半分ぐらいは、男の子も女の子も、下駄で学校へ通っていた」
昭和二十年代はじめの子供たちも下駄を履いていたか。
昭和二十五年(1950)に公開された石坂洋次郎原作、成瀬巳喜男監督の牧歌的な田園喜劇『石中先生行伏記』の第二話に、下駄の似合う女の子が出てくる。
若山セツ子演じるその女の子は青森県弘前あたりの農家の娘。夏の一日、町の病院に入院している姉(中北千枝子)を見舞いに行く。
もんぺにブラウス、日傘、そして下駄。首には手拭いを巻き、背中には姉へのみやげを入れたリュックサックを負っている。いかにも純朴な田舎の女の子。可愛らしい。
彼女は町の入り口の橋の上で立ちどまる。休憩でもするのかと思うと違う。リュックサックのなかから新しい下駄を取り出して履きかえる。町には精一杯、おしゃれして行きたい、その乙女心が新しい下駄にあらわれている。
高峰秀子の子役時代の映画にも似たような愛らしい場面がある。
昭和十六年に公開された井伏鱒二原作、成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』。当時、十七歳の高峰秀子が演じるのは、甲州の田舎町を走る小さなバスの車掌さん。
田舎のバスなのでのんびりしている。客は少ない。そこで、畑のなかの一本道で運転手(藤原釜足)に、「ちょっと、とまって。ここで待っていて」といって道脇の自分の家に入ってゆく。そして、ボロになってしまった靴を新しい下駄に履きかえてバスに戻ってゆく。新しい下駄で気分一新して発車オーライ。