ダンサーは華やかな職業
昭和に入るといよいよ社交ダンスは盛んになり、東京のあちこちにダンスホールが出来るようになった。
そのなかでも特に知られたのは赤坂の溜池に出来たフロリダだろう。美しいダンサーが多いので人気があった。
戦前の松竹のスター、清水宏監督の『有りがたうさん』(36年)や小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』(37年)に出演した桑野通子(みちこ)(昭
和三十年代の人気女優、桑野みゆきの母親)は、フロリダのダンサーだったところをスカウトされた。ダンサーだっただけに戦前の女優としては抜群にスタイルがよかった。
またフロリダの人気ダンサーだったチェリー、こと田辺静枝は、トーキー第一作『マダムと女房』(五所平之助監督、31年)の脚本で知られる脚本家で作家の北村小松と結婚している。ダンサーが華やかな職業だったことがうかがえる。
昭和史の年表を見ると、昭和三年(1928)にこんなことが書かれている。
「警視庁が、ダンスホールに18歳未満の男女の入場を禁止する」(『江戸東京年表』小学館、93年)。未成年に禁止令が出る。それだけダンスホールの人気が高まったのだろう。
昭和十二年に公開された映画、入江たか子主演、成瀬巳喜男監督の『女人哀愁』には面白い場面がある。
女学校に通うお嬢さんの家に女友達が何人か遊びに来る。トランプをし、お喋りをし、そして女の子どうしでダンスをする。女学生ではダンスホールに行くわけにはゆかず、しかも、この時代のお嬢さんは男友達がいるわけもなく、女の子どうしで踊りの真似事をしたのだろう。可愛らしい。
文学者たちを夢中にさせた社交ダンス
文学者もダンスをする。
意外なことに詩人の萩原朔太郎もダンスに夢中になった。娘の作家、萩原葉子が回想している(『遅咲きのアダジオ』主婦と生活社、84年)。「昭和初年、日本へ入りたての社交ダンスを、父はいち早く取り入れ、妻である母に習わせ、家でダンスの練習をしました。手回しのハンドルを回しながら、SPのレコードをかけ、畳の上でずるずるとワルツのステップを踊るのでした。和服に髪を結った母が、手摺(てすり)につかまりチャールストンを踊るのは、当時近所の話題でした」
なかなかモダンな夫婦だ。この両親を持ったからだろう、萩原葉子は後年、四十歳を過ぎてからダンスに熱中し、小田急線沿線の自宅にダンススタジオを造り、世を驚かせた。
萩原朔太郎の他に、『あらくれ』や『縮図』で知られる地味な純文学作家、徳田秋声がダンスに凝ったのも意外。
ブラジル移民を描いた『蒼氓(そうぼう)』で昭和十年、第一回の芥川賞を受賞した石川達三は若き日、ダンサーをしていた。
ダンスが似合ったのは『放浪時代』『アパアトの女たちと僕と』の昭和モダニズムの作家、龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)だろう。
人気作家だったので経済的に恵まれ、高円寺の大きな家に住んだ。家を探す時、幾組かがダンスを踊れる部屋があることが条件だった。幸い広い応接間がある家が見つかり、そこをダンスホールに見立てて友人たちと踊ったという。
ダンスは男女が抱き合うように踊るからどうしても風俗に良くないとされる。昭和のダンス熱は戦時色が強まるにつれ時代から消えてゆき、昭和十五年にはダンスホールは閉鎖を余儀なくされた。
戦後、またダンスはよみがえったが、その後、ビートルズ革命のあとになると社交ダンスは、若い世代には敬遠されていった。
社交ダンスを描いた映画、周防正行監督、役所広司、草刈民代主演の『Shall we ダンス?』が一九九六年に公開され、話題になったのも、社交ダンスが珍しいものになってしまったからこそだろう。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『きのふの東京、けふの東京』『いまも、君を想う』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『時には画の話を』『いまむかし東京町歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『そして、人生はつづく』『映画は呼んでいる』など多数の著書がある。