見栄えと貫録を演出する男の小道具
昭和の風景 昭和の町 2014年1月1日号より
ステッキと帽子は、モーニングコートや燕尾服を着用するときには必ずセットとして用いられた男子礼装時の小道具でもある。政財界や文学界なのどの多くの人物たちも写真に納まるときには帽子を被り、ステッキを持ったものだ。ハイカラなモボ(モダンボーイ)たちはステッキを持って街を闊歩し、昭和の父親たちは着物姿でも散歩にはステッキを携帯した。今はめっきり見られなくなった昭和の風景である。現在、おしゃれアイテムとしてソフト帽タイプの帽子を被る若い男性たちが増えているが、ステッキもそのうち男のたしなみの小道具として人気再燃となるだろうか。それにしても昭和の男たちは、なんと「大人」だっただろうか。
文=川本三郎
ステッキを愛用した小津映画の大人たち
いまはもうほとんどみることがなくなってしまったが、昔の大人の男は、外出する時に好んでステッキを持った。
小津安二郎の映画によくステッキを持った大人の男が描かれる。
昭和二十四年(1949)の『晩春』では、父親の笠智衆が娘の原節子と東京の町を歩く時、三つ揃いの背広でソフト帽をかぶり、そしてステッキを持っている。
昭和二十六年の『麦秋』では、鎌倉に住む老植物学者の菅井一郎が妻の東山千栄子と東京の上野あたりに出かける時にステッキを持っている。
昭和三十年代に入ってもまだステッキは愛用されている。昭和三十三年の『彼岸花』では、丸の内の会社の要職にある佐分利信が、箱根へ家族旅行に出かけ、妻の田中絹代と芦ノ湖畔を散策する時にステッキを携えている。
この時代、大人の男、とりわけ年齢がゆき、相当な地位に就き、貫禄が出てくるとステッキを持った。いわば男のたしなみである。
一介の会社員だとまだステッキは似合わないが、それでも、特別の時にはステッキを取り出す。
林芙美子の昭和二十五年の長編小説『茶色の眼』では、主人公の会社員、中川十一氏が妻に隠れて、日曜日に、ひそかに想いを寄せる未亡人と上野の美術館に出かける時に、珍しくステッキを持つ。いつもはカバンを持つ手にステッキがある。
「何も持たないよりいい」ということだが、ひそかな逢いびきに、少しでも見栄(みば)えをよくしたいという思いがあるのだろう。
散歩にステッキは明治に始まった習慣
ステッキは明治になって西洋からもたらされた。漢字では「洋杖」と書く。
夏目漱石は洋杖(すてっき)を愛した。その作品にはしばしば洋杖が登場する。
『行人』(大正二年)の大学教授、長野一郎、『こころ』(大正三年)の先生、『明暗』(大正五年)の津田由雄、みんな洋杖を愛用している。
『彼岸過迄』(明治四十五年)の田川敬太郎が持つ、友人から譲り受けた、竹の根で作られ、蛇の頭のついた洋杖は、漱石の読者にはとくによく知られている。
友人は、自分で竹を切って、蛇の頭を彫ったのだという。
ステッキが明治になって西洋からもたらされ、日本人にも愛用されるようになった一因は、明治九年の廃刀令によって元の侍たちがそれまでのように刀を持てなくなり、腰が寂しくなったのを補うため、という、うがった見方がある。
しかし、いちばん大きな要因は、明治になって散歩という習慣がやはり西洋からもたらされ、散歩のお伴として愛用されるようになったことだろう。