風雅が香る文士のステッキ
昭和になって、ステッキは文士のあいだに大流行した。
昭和の作家、永井龍男の随筆集『わが切抜帖より 昔の東京』(講談社文芸文庫、平成三年)に「ステッキと文士」という一篇がある。
それによると、昭和のはじめ、銀座を散歩する文士はたいていステッキを持ったという。
「ステッキをたずさえない文士は一流でも一人前でもなかった。当の小説家たちも、そのスタイルに一種超俗の誇りを示したといってよかろう」
井伏鱒二の随筆『風貌・姿勢』(講談社、昭和四十二年)によると、昭和の文人たちは、ステッキを友人に贈ることをよくしていたという。
堀辰雄は室生犀星から籐のステッキをもらった。小林秀雄は志賀直哉からもらった。井伏鱒二自身は今日出海からもらった籐のステッキを愛用していた。
井伏鱒二はまた自分でステッキを作った。
井伏を師と仰ぐ作家、小沼 丹(おぬま たん)『清水町先生 井伏鱒二のこと』(筑摩書房、平成四年)には、ある時、小沼が、師の荻窪の家を訪ねたら、師が縁側に庭から切ってきた竹を何本も並べて、小刀でステッキを作っていた。その一本をもらったという。自分でステッキを作る。文士の風雅だろう。
東京、調布市に武者小路実篤記念館がある。
この白樺派の作家は、七十歳になって「水のあるところに住みたい」と、昭和三十年(1955)に野川の近くに家を建て、昭和五十一年に九十歳で亡くなるまで暮した。その住まいが記念館になっている。
館の展示物のなかにステッキがある。友人の志賀直哉が、自分で作り、贈ったものだという。ここにも文士の風雅がある。
荷風のこうもり傘はステッキの代わり
ステッキを愛用した最後の文士といえば石川淳だろうか。
夫人の活(いく)が書いた『晴のち曇、所により大雨――回想の石川淳』(筑摩書房、平成五年)によれば、石川淳は七十歳のころに、「俺もそろそろステッキを持つかな」といい、その日のうちに丸善で籐のステッキを買い求めてきた。以来、外出の時は、ステッキを持つようになったという。
なるほど晩年の石川淳の写真を見ると、ソフト帽にステッキで決めている。
そのうち、奥さんのステッキに目をつけた。胡椒の木で作った珍しいものでイタリア製だった。「これはいい」と気に入り、すっかり奥さんのものを取ってしまった。
昭和六十二年に石川淳が亡くなった時、活夫人はそのステッキを棺におさめたという。
明治から昭和に生きた永井荷風が、こうもり傘を愛用したことはよく知られている。外出する時は、いつもこうもり傘を手にした。
晩年は特に、町歩きにこうもり傘は欠かせなかった。この傘はいまもソフト帽や買物籠などの遺品とともに大事に残されている。
荷風にとって、こうもり傘はステッキの代わりだったのだろう。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京町歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『そして、人生はつづく』『映画は呼んでいる』『ギャバンの帽子、アルヌールのコート:懐かしのヨーロッパ映画』など多数の著書がある。