高収入で家計を支えた最先端の職業マネキン・ガール
丸山三四子は、昭和の詩人、丸山薫の妻。詩人の暮しは楽ではないので、当時、二十代はじめの妻の三四子が働くことになった。知人の紹介で、銀座にあった東京マネキン倶楽部という事務所に入り、マネキン・ガールになった。昭和のはじめ、事務所には五、六人のマネキンがいた。
主な仕事は、デパートでの商品の宣伝と販売。銀座の町をモダン・ガール(モガ)、モダン・ボーイ(モボ)が闊歩していた時代である。マネキンは、「ガール」のなかでも最先端を行く新しい職業だった。
驚くのは、その収入。丸山三四子は書いている。
「その頃のマネキン・ガールといえば、いわばファッション・モデルも兼ねた華やかなものでした。収入の面でも、大学卒の一流サラリーマンよりはるかに多かったのです」
「デパートの売場に立ちますと、大勢のお客様がつめかけてまいります。マネキン・ガールのトップは、いまのテレビタレント並みの忙しさで、一年先のスケジュールまでうまっていたくらいなのです」
昭和のはじめの東京で、こんな華やかな女性がすでに生まれていたとは。貧乏詩人の妻として丸山三四子は家計を支えていた。
面白いのは、マネキンになるのは、貧乏文士の妻や、夫が左翼運動に関わっていて生活が苦しい新劇の女優などが多かったこと。
左翼運動に加わり逮捕された経験がある作家、高見順の奥さんはマネキン・ガールになった。高見順の小説『故旧忘れ得べき』(昭和十年)には、保険の外交員をしているかつてのエリート学生の妻が、マネキン・ガールをしている。夫は「俺なんかより収入が多いんだよ」と自嘲する。
昭和の私小説作家に尾崎一雄がいる。昭和十二年に短篇『暢気眼鏡』などで芥川賞を受賞している。
『暢気眼鏡』は尾崎一雄自身を思わせる貧乏文士とその若い奥さんとの、貧しくも、のんきな暮しをユーモラスに描いている。
夫の小説が売れないので、妻が働くことになる。知人から銀座のマネキン倶楽部の仕事を頼まれる。
ずっと家庭にいた女性だから、人前に出る仕事は恥しいと、はじめは断わるが「お金欲しいもん」と家計のことを考えて引受ける。
「日本橋のS屋に明日から向う一週間、K正宗の宣伝ということだった」。
「S屋」は「白木屋」、「K正宗」は「菊正宗」だろう。
七日間、なんとか無事に務め「少しばかりの金」が入る。貧乏文士の家庭では、思いがけない収入だったろう。
マネキン倶楽部の乱立で生まれた格差社会
マネキン・ガールのみんながみんな恵まれていたわけではない。いい職業だと分かると、マネキン倶楽部が乱立する。当然、そこに格差が生まれる。
林芙美子の『帯廣まで』(昭和十年)の主人公はマネキンといっても一流ではない。もともと浅草のレヴューの踊子だった。踊子をやめてマネキンになるが、仕事といえば、東京の小さな町の呉服屋や薬屋や雑貨屋で「一日いくら」の仕事をする。夏には、北海道の町々をまわる。題名の『帯廣まで』は、そこからつけられている。
昭和のはじめ、こういうマネキンを主人公にするところが、庶民を愛した『放浪記』の作家、林芙美子らしい。現代を格差社会と呼ぶが、すでに昭和のはじめにそうだった。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京下町歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『映画は呼んでいる』『ギャバンの帽子、アルヌールのコート:懐かしのヨーロッパ映画』『成瀬巳喜男 映画の面影』『映画の戦後』『サスペンス映画ここにあり』など多数の著書がある。