紙芝居「製作所」は東京下町の小さな会社
紙芝居の誕生は昭和初期。
はじめは、紙人形を使った芝居を見せていたが、それが絵物語に変わっていった。そのほうがスピーディで子供に喜ばれた。
昭和五年には、大衆文化史上、よく知られている『黄金バット』(作・鈴木一郎、絵・永松武雄)が大人気になり、紙芝居という職が定着した。
紙芝居の内容は、冒険活劇、怪談、少女ものなどが主。映画『銀座化粧』の紙芝居の場面には、女の子たちも紙芝居を見ている。母ものなどに涙を流していたのだろう。
加太こうじは大正七年、浅草の生まれ。のち荒川区の尾久(おく)に移った。高等小学校の生徒だった十四歳の頃から紙芝居を描き始めたというから驚く。
紙芝居を作る「製作所」は大半が東京の下町にある小さな会社だった。
「できてはつぶれ、つぶれてはまたできた」。そういう零細企業だから、十四歳の少年でも絵がうまければ、雇ってもらうことが出来た。
加太こうじ少年はある時、荒川区の三河島の長屋にある小さな「製作所」を訪ね、「紙芝居の絵を描かせて下さい」と頼んだ。描いてきた二枚の絵を見せると、主人が「ふーん、まあ使えるかな」と雇ってくれた。昭和の初めのこと。下町では庶民どうしが助け合って生きるという暮しが自然にあったのだろう。
少年だから画料は安かったが、それでも仕事はあった。「私のような子供が、へたな絵で一家五人を食わせられるほどの収入があった」。
三年間ほどで十数軒の製作所を描いてはやめ、やめさせられるとまた新しいところを探して描く。「そんなことをくり返しているうち、少しうまくなって紙芝居では人気のある作者兼画家になってしまったのである」
昭和十年から十一年は、紙芝居の全盛期だったという。
だからだろう、大正十二年、浅草生まれの池波正太郎は、随筆「私の夏」(『日曜日の万年筆』新潮文庫)で、子供の頃、紙芝居に惹かれ、自分で紙芝居を作ったと回想している。
「ワラ半紙を買って来て四つ切りにして、筆と墨で描き、クレヨンで色をつけ、(友達と)たがいにやって見せる」
ロビン・フッドの冒険やキング・コングを紙芝居にしたという。
紙芝居は下町の庶民文化だった
昭和二年、港区生まれの北杜夫は長編小説『楡家の人びと』のなかで、昭和のはじめ、小学校に上がる前の子(自身の子供時代だろう)が、紙芝居に惹かれる様子を描いている。周二というその青山の大病院の子供は、夕方になると町にやってくる紙芝居に夢中になる。
紙芝居の拍子木の音を聞くと、大勢の子供が集まってくる。一銭銅貨を差し出して紅白のねじり飴を買う。紙芝居が始まる。「さあて、そのとき現われたのは、正義の怪人、黄金バット!」
子供たちは夢中になる。しかし、周二は「不幸」だった。一銭もお金を持っていないから。おじさんに「さあ、飴を買わない子はうしろ、うしろ」と押しのけられてしまう。
周二がお金を持っていないのは、学齢前ということもあるが、何よりも良家の子供だったため。当時、山の手の良家の子供は、こづかいを持たされないのが普通だった。「買い食い」が禁じられていた。
紙芝居は、下町の庶民の子供たちが楽しむものだった。青山の大病院の子供である「お坊ちゃん」は本来、見てはいけないものだった。荒川区の町屋は、紙芝居が多かった町として知られているが、戦前も戦後も、紙芝居は下町の庶民文化だった。
この紙芝居もやがて昭和三十年代になると次第に世の中が豊かになり、子供の興味が、漫画本や映画、そしてテレビへと移ってゆくと共に、町角から消えていった。初期のテレビが「電気紙芝居」と呼ばれたことに、かすかにその名残りが感じられる。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京下町歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『映画は呼んでいる』『ギャバンの帽子、アルヌールのコート:懐かしのヨーロッパ映画』『成瀬巳喜男 映画の面影』『映画の戦後』『サスペンス映画ここにあり』など多数の著書がある。