◆私でなければ松田聖子をデビューさせることはできなかった
松田聖子のレコード・デビューは80年4月1日で、少女の声に出会ってから約2年の月日、“TAKE IT EASY(気楽にいこう)”の言葉を胸に、若松さんは、ひたすら自身の直感にある種の確信をもって突き進み、目の前の高い壁を乗り越えていく。何が、そこまで若松さんを動かしたのだろうか。
「一つはソニーの制作セクションの責任者で、私の一存で物事を進めることができたということ。それと、松田聖子の声を初めて聴いて、福岡営業所で本人に初めて会ったときの印象で、彼女は誰がどう言おうと絶対に売れるなという確信を得たこと。その確信があったので、周りから否定されても、彼女の良さがわからないんだなというだけで、なぜわからないの、というふうには思いませんでした。まあ、できればわかってもらいたいなというのはありましたが、心がくじけることはありませんでしたね。同時に、プロデューサーになって、なかなか結果が出せていないなという私自身がプロデューサーとしての土壇場を感じていたので、やり残しのない、思い残しのないよう自分自身に結果を出したいという思いが強かったと思います。だから、聖子を見る目も、周りの言葉に影響されないくらい敏感で鋭かったのだと思います」
そして、当時を振り返り「私でなければ松田聖子をデビューさせることはできなかった。なぜなら、私だけが彼女の可能性を信じ、見抜いていたから」と言う。
さらに、「あのタイミングでの私と聖子だったからこそ、〝なんとしてもデビューさせたい〟〝なんとしてもデビューしたい〟という互いの想いが呼び合った、まさに必然の出会いだったと思う」と。
福岡時代に松田聖子のボイストレーニングを若松さんから委ねられた平尾昌晃は、「プロになったら絶対成功するという強い意志を松田聖子本人からいつも感じていた」と言っている。
「平尾さんからは聖子の声を聴いて、彼女はすごいね、並じゃないねと、言っていただきました」と、その資質を見抜く人もいた。プロフェッショナルのお墨付きは心強かったことだろう。
父親とも直接会って、歌手になりたいという松田聖子の揺るがぬ思い、そして若松さん自身の思いを誠意をもって伝えることで説得に努め、ついには父親からも信頼を得るにいたり承諾をとりつけた。79年の夏にはプロダクションもサンミュージックへの所属が決まり、松田聖子が上京する。そして若松さんの確信通り、〝潮目〟が動き出すのだ。
サンミュージックとしては、レコード・デビューは早くとも80年の秋以降と考えていたが、若松さんは80年4月1日と、デビュー日を宣言し実現させる。デビューの前年から、ラジオやドラマのレギュラーを務め、80年初めからはNHK「レッツゴーヤング」のレギュラーも決まっていく。「聖子にはチャンスを引き寄せる自身の明るさやタレント性があった」と若松さんは言い、松田聖子は自分の夢に意識を集中させていく。「大切なのは、聖子はほかの誰にも似ていなかったということである。山口百恵がそうであったように」とも。