◆作家陣のセレクトをはじめ楽曲制作のすべてを一人で手がける
70年代のアイドルのほとんどが筒美京平から楽曲を提供されていた時代、松田聖子のデビュー曲も筒美京平に依頼するがスケジュールが折り合わず、実現しなかった。「京平さんに頼んだときは、私の精神状態がやや守りに入っていたのだと思います。京平さんに頼めば少なからずヒットするのではないかなと。その思惑通りにはいかなかったというのは、一つの分岐点ですね。京平さんと上手くいっていたら、その後の聖子があそこまでの存在になっていたかどうかはわからないですね。作風が全然違っていましたから」
そこで、若松さんの思考回路が新たに働き出す。松田聖子の作家陣はもっと冒険心を持って新しい才能を開拓していくべきだと。若松さんがタイトルをつけたデビュー曲「裸足の季節」は、「アメリカン・フィーリング」一曲から感じ取った若松さんのイメージで、作曲を小田裕一郎、作詞を別の新人歌手のプロジェクトに参加していたのを断ってまで、聖子の声の魅力に惚れ込んだ三浦徳子に決まった。
2月のレコーディングのとき、ガラスブースの向こうでマイクの脇の聖子の頬に涙が伝わっていた。若松さんいわく「瑠璃色の地球」の一節ではないが、まさに泣き顔が微笑みに変わる瞬間だったと。何度かのテイクの中で、少し拙い歌い方のものを若松さんは選んだ。歌い込んでバランスを考えた歌唱より、荒削りでも、風が吹き抜けるようにどこかさりげない歌い方のほうが人の心にスッと入っていくという信条からだ。若松さんがプロデュースしている間は、早めに曲を聖子にわたすのではなく、あえて、その場で覚えてもらうことを心がけ、それはデビュー曲から貫かれていたのだ。
2枚目のシングル「青い珊瑚礁」のタイトルも若松さんによるものだ。そして作曲も小田裕一郎。「あーーわたしーのこいはーー」の冒頭のフレーズの聖子の強烈なヴォーカルで一瞬にして大きなインパクトを世の中に放ったのだ。作詞は三浦徳子、編曲は大村雅朗だった。TBS系「ザ・ベストテン」でも1位まで上り詰めた。
その後、初のオリコンチャート1位となる「風は秋色」を皮切りに、「渚のバルコニー」「チェリーブラッサム」と、いずれも若松さんがつけたタイトル曲で、24曲連続オリコン1位という記録が樹立されるのである。
そして、財津和夫、松本隆、大滝詠一、松任谷由実、細野晴臣と次々に人脈の輪が広がっていき、才能豊かな作家陣の感性が、松田聖子の作品として結実していくのである。
「単純なことで、音楽に優れた人が音楽を追求しても、プロフェッショナルとして売れるとは限らない。音楽をよく知っている人はやはり音楽が愛おしいから、作品を作るときに音楽的な方向性を主に作品をつくるわけです。でも、音楽的な方向で作品を作れば音楽的な質感においてはすごくレベルが高いけれども、娯楽性においては非常に大事なものが欠けている。娯楽性がないと歌は売れない。音楽的というのは、ある程度理論で説明できますが、娯楽性というのは、言葉では明確に説明できない。曖昧な言葉になってしまう。その明確に説明できないところが、売れるか売れないかの分岐点です。聖子はどちらかと言えば音楽的ではなく、アイドル的。アイドル的な素地だけど、音楽的な部分と交じり合うことで、音楽的でも、アイドル的でもない一つの独自の路線が創造できると思ったわけです。
私は何もしていないんです。こんなテイストであとは自由に作ってくださいとお願いするだけ。自由に作ればその作家の個性が出る。でも、聖子に合わせてこんなふう、あんなふうと考えれば考えるほど、その人の持ち味は薄くなってくるんです。こうだ、ああだと注文をつけると、その人の発想が狭められていく。だから方向性だけ伝えればいい」
松田聖子を意識しすぎた作品作りだと、今の松田聖子の魅力は表現できても、まだ眠っているポテンシャルとしての新たな松田聖子の魅力は引き出されない、というわけだ。
若松さんはプロデュースだけでなく作品制作を一人でやっていく。松田聖子の楽曲制作にあたって、若松さんが何よりも心がけたのは合議制にしないということだった。会議などを重ねていくと、最終的に誰も責任を取らず、何の面白味もない安全策第一の企画になってしまうのは、よくあることだ。
「基本的にはモノ作りは一人ですよね。自分の感性を貫かないとモノ作りは明確にならない。聖子の作品は100%私の独断でした。作家をどうするか、アレンジャーをどうするか、レコーディングをどうするか、仕上げをどうするか、ジャケット写真をどうするか」
アルバムのクオリティの高さも聖子人気の要因の一つである。アルバムの流れを意識した曲構成という考えの若松さんは1stアルバム『SQUALL』から、作家のキャスティング、歌詞や曲の推敲、音の仕上げ、曲順、ジャケット写真のセレクト、添えられた帯のコピーなど、すべてを手がけている。そして、常に若松さんを信頼してクリエイションを託したところが、松田聖子の感性のすごさとも言えるだろう。
シングル盤、アルバムのタイトルもすべて若松さんがつけた。
「やはり聖子の特性、個性を基本的には意識しながら、私のイメージの扉を全開にして私の感性でつけていく。私一人で担当していたから生みの苦しみというものはなかったですね。誰かと一緒にプロデュースやっていたら、ぶつかって、モノ作りではなくて人との関係の苦しみというのがあったかもしれません」