◆あの声質、声の強さ、清楚な雰囲気、それをすべて持ち合わせる松田聖子以上の人にはまだ会っていない
松田聖子とはデビュー前からを含めて7年くらい時間を共有してきた若松さんは、その時代、時代における松田聖子の年齢やポジショニングを考えないと、どんなに作詞、作曲が良くてもヒットはしない、と言う。松田聖子のデビュー日を1980年4月1日に決めたことにも意味があったのかもしれない。
「当時、私の運勢はあまり良くなかったんですよ。でも芸事というか、芸能の世界って意外と逆なことが起こるんですよ。今はだめだと思うときにヒットするなんてことがあれば、みんなが絶対いいタイミングだよって言っていたのにヒットしないってことも。それは、芸能は、世の中の規則からはみ出さないと娯楽にはならないわけですよね。規則の範囲内だと最大限がんばったとしても基本的に枠の中だから驚きも生まれない。娯楽の原点は枠の外なんです」
若松さんが考える音楽プロデューサーの仕事にとって大切なものは何なのだろうか。
「歌手の特性を見抜くことですね。歌の上手い、下手もさることながら、その歌い手が人としてどういう人で、作品を歌ったときに表現力の深さが出せるかを見極める。歌が上手くて、しかも表現力の奥行がある人は非常に少ないですね。プロデューサーである私には方向性が見えているわけですよ。だからひたすらそこに向かって仕上げていくということですね。見えているというのは自分の感覚であり、主観によるものですが」
歌手が歌うのを聴いたとき、人は何によってその曲をいいと感じるのか。それは歌の上手さではなく、声の強さだと若松さんは言う。そういう意味では「青い珊瑚礁」の冒頭のフレーズは、松田聖子の声の強さを知る若松さんのプロデューサーとしての目利きがあったからこそ成立したものと言えよう。
「松田聖子は、やはり独特の歌の世界を持っていましたね。とにかく突き抜けて他の誰よりも売れる確率が高いと思いましたね。あの声質と声の強さと清楚な感じ、それを持ち合わせる松田聖子以上の人はいまだにいない」という言葉からは、二人の出会いは、奇跡とも言える出来事だったのではないかと思える。
そして、「松田聖子が社会現象的な存在にまでなったのは、縁や運の強さもありますが、私だけを信じ通してくれたことも大きいと思っています」と続けた言葉からは、やはり必然と言えるめぐりあわせだったに違いないと思える。
参考文献:若松宗雄著『松田聖子の誕生』(新潮新書)
写真提供:若松宗雄氏
取材・文:二見屋良樹