~役柄と素顔のはざまで~
文=上野正人
企画協力=齋藤智志(秋山庄太郎写真芸術館主任学芸員)、秋山啓佑(同学芸員)、写真提供=秋山庄太郎写真芸術館、取材協力=劇団俳優座
「来た、来た! 『秋山小劇場』が来た!」撮影機材を抱えて、秋山庄太郎がやって来た。
本番鑑賞の後に、「あの場面をもう一度!」役者はちっとも嫌がらずに再演する。「役になりきっている表情を写す」ベテラン舞台俳優も、新人も喜んだ。
劇場での撮影の後、劇団の若者たちは、秋山庄太郎のスタジオに集い、飲み、食い、語らった。
秋山庄太郎は微笑みを絶やさなかったが、おのれ自身と厳しく向き合っていた。
やがて秋山庄太郎の眼は人間の内面にも注がれて、素顔の喜劇俳優にレンズを向ける。
秋山庄太郎生誕百年のいま、次の百年にも伝えたい名優たちの肖像写真と写真家の挿話をここに記録しておくことにしよう。
「女優を美しく撮ることに関しては、秋山庄太郎の右に出る者はいない」。昭和30年代、気が付けばそんな評判が立っていた。美人女優の代表格・原節子をはじめ数多の女優たちを次々と撮っていく。飛ぶ鳥も落とすような勢いで写真界の第一線に躍り出た、そんなふうにみえたかもしれない。
一方、「女性専門の作域の狭い軟派写真家」との酷評もあった。「男」にレンズを向けなかったわけではないが、傍流の域にも達していないことは否めない。焦りも手伝い、「男」にも傾注しようかと考える。雑誌の企画で作家・高見順を撮ったとき、「秋さんは、女を撮るのがうまくて一生懸命なだけあって、男も美男子に撮ってくれる」と喜ばれた。だが、自分より年長の男性に多く対するなら、位負けしない50歳くらいまで待つ必要がある。ただ、徒(いたずら)に年齢を重ねることなく、年輪を刻んでいくことが大切だと考える。
秋山庄太郎のスケジュール帳を開くと、「1974年1月10日(木)18時 俳優座30周年パーティー」「1974年1月13日(日)16時 リチャード三世 仲代達矢」など数か所に仲代達矢がらみの記述がある。「仲代達矢君が俳優座の研究生だったころ、婦人雑誌の仕事で、ワイシャツのモデルが必要になり、「だれかいない?」といわれて、仲代君にお願いしたことがあった。俳優座で彼が主役のシェークスピアの『リチャード三世』を公演した折に写真を撮らせてもらったが、その後彼の主宰する無名塾で全国で公演することになって、ポスターにその時の写真を使わせていただきたい、と言ってくれた。撮影しておいて嬉しいのはそんな依頼が来る時である」(秋山)。テレビのインタビュー番組などでは、現在も「この写真は秋山庄太郎先生が撮ってくださったものです」と紹介されることがある。「立派な新劇俳優である。柄もよし、演技もよしで若くして新劇を支える柱の一本となっている。レンズに向かって舞台の演技を再現する数少ない俳優の一人である。とくに仲代達矢の眼は素晴らしい。滝沢修が静なら、仲代達矢は動。いつ撮っても写し甲斐のある魅力的な素材だ。私の撮った『ハムレット』、『四谷怪談』、『リチャード三世』のポスターはみな好評だった。私の功績ではなく、素材の迫力なのである」(秋山)(『日本カメラ』1974年3月号、秋山庄太郎『役者の顔』)
役柄になりきった舞台俳優たちの記録
秋山庄太郎は映画雑誌社勤務を辞して4年間は、出版社内のスタジオを借りたり、カメラマン仲間とビルの一室を共用したりした。
1955年、麻布今井町(現・港区六本木七丁目付近)に10坪ほどの自分のスタジオを建設、借金をしたから、ひたすら働いた。しかし、受注撮影だらけの毎日に我慢ならなくなり、自主制作を始める。その一つが「舞台俳優」である。
すぐ近所の俳優座で、稽古や本番の芝居をみてから、印象的なシーンを舞台衣装のまま、セリフ入りで演じてもらいシャッターを切る。人呼んで「秋山小劇場」。役柄になりきった顔を記録したかったのである。
「演技とはかくなるものか」と感動した一人に滝沢修がいる。『炎の人』では、「こちらが見る間に、すす、すうっと、役に入っていく。たちまちにして、顔がゴッホのそれになる」。
宇野重吉らと劇団民藝を設立。卓抜した演技力で、こなせない役はないだろう、と言われた。映画出演作も多く、『安城家の舞踏会』では原節子と共演。NHK大河ドラマにも多数出演し、とりわけ「赤穂浪士」(1964年)での吉良上野介役は話題になった。舞台『炎の人』でのひまわりは自ら描き、公演パンフレット掲載写真も自ら撮る腕前で、1940年代、写真家集団「銀龍社」で秋山庄太郎らとの例会に写真を持ち寄って批評しあっている。「新劇俳優の中で、最も魅力があるのはだれかとたずねられたら、わたしはまず滝沢修に指を屈するだろう。ミスキャストなんてものは、彼には存在しないのではないかとすら思っている。何といっても声質がすばらしい。故羽左衛門の名調子を忘れ得ないように、わたしは滝沢修という新劇俳優の声は、異質であっても橘屋に比肩して遜色(そんしょく)のない名調子だと思うのである。楽屋でときどき彼のポートレートを撮る。小さな背景の前で舞台と全く同質の演技をレンズに収めさせてくれる数少ない俳優でもある」「『炎の人』ゴッホ役を再現撮影した時はプロだからこそ、生まれる顔だった。これがまだ修業不足の新人だと、おたおたして、なかなか様にならない。よくしたものである」(秋山)
秋山庄太郎は同年代の木村功・金子信雄・岡田英次や、新人たちとの付き合いも大事にした。スタジオで一緒に飯をくい、酒をのむ。「おじや」が名物だったという。
「将来大物になるだろう」と確信する若手に出会えるのも楽しみで、仲代達矢の独特な眼と真面目な態度に感じ入った。
演劇評論家・尾崎宏次は、自分自身に厳しい秋山庄太郎が、誰も手を付けたことのない仕事に取り組んでいることを高く評価し、「秋山君のスタジオに集まった新劇の若い人たちは、まるで子供のように秋山君の前ではしゃいでいる。そんなふうに慕われている秋山君の人柄に私はちょっと驚いた。しかし、秋山君の眼は1枚1枚の舞台俳優の写真にきちんとあらわれている。その油断と緊張のようなものが、舞台俳優写真の芸術性をうみだすカゲの秘術かもしれない」と述べている。
テレビドラマ「水戸黄門」での黄門様役(1969年から足掛け14年全381話務める)をはじめ、黒澤明監督や小津安二郎監督作品でおなじみの人々にとっては東野英治郎と舞台が結びつかないところもあるかもしれないが、千田是也や小沢栄太郎、東山千栄子らと一緒に俳優座を創設した舞台人である。紀伊國屋演劇賞、テアトロン賞など舞台で受賞歴も複数ある。「会うといつも、『秋さん、うちの若いものたちがごやっかいになってまして……』なんて言ってくれた。千田是也さんや小沢栄太郎さんなんかからもそんな、御礼をよく言われました。新劇の若い人たちは、たいてい貧しくて、いつも空腹だったから、僕のスタジオで飯をくったり、酒をのんだりしていたからね。『秋山一家』なんてよく言われていましたよ」(秋山)