国際人であることの
真の意味を教えてくれた
川喜多夫妻
川喜多長政氏は、そうした美しく先端的な文化活動家である夫人の経済的なスポンサーというふうに見られていた傾向があるが、いちど外国の映画祭で二人きりになる機会があり、そのときしみじみと戦争中の中国での仕事の経験をお聞きして考えが変った。
川喜多長政の父親は日本陸軍の将校で、清朝中国の士官学校で教官をしていた。そしてなぜか日本の憲兵に暗殺されている。中国軍の強化に熱心でありすぎたらしい。日中提携で西洋に対抗するという大アジア主義者だったらしい。その父の志を継ぎたいと長政氏は北京大学に留学している。のちに日中戦争で中国映画の撮影所が集中している上海を占領した日本軍は長政氏に中国映画界の管理を依頼した。長政氏はこれを引き受けた。すでに日本が植民地化していた満州では満映という国策会社が盛んに日本のためのプロパガンダ映画を作っていた。しかし中国通の長政氏には上海でそんなことをしたら、参加した中国映画人がテロでやられると分っていた。だから抗日的なテーマ以外なら何を作ってもいいという方針を貫いた。だから日本軍の占領下の上海で作られた中国映画は毒にも薬にもならない娯楽作品ばかりと言われたが、しかしそれで戦後、上海の中国映画人は漢奸(中国への裏切者)として裁かれずにすんだ。そのことを自分は生涯の誇りにしている。でも、そんなことは誰も賞めてはくれないことだ……と。
私はこの打ち明け話に感動した。のちにマレーシアの華僑の学者から、少年時代に日本占領下のマレーで見ていちばん楽しかった上海の映画で『千紫万紅』という作品があったと聞き、北京の国家電影資料館を訪ねてこの作品を見せてもらった。たしかにそれは真実からは遙かに遠いハリウッド・ミュージカル調の娯楽作品だったが、娯楽としては上出来で、戦争中でも一刻、中国人や東南アジアの華僑たちは楽しい夢にひたることができたに違いないと納得した。
敗戦後、上海から引き揚げ船に乗った長政氏が、一緒に帰れるはずだった山口淑子さんが、中国を裏切った中国人李香蘭として裁判にかけられることになったと知ると、ひとり敢然と引き揚げ船を下りて、彼女が日本人だと証明されて釈放されるまで上海に残った。なにかもう、ほんとうに男らしい。
私はお二人から、国際人であることを学んだ。それは決して華やかに浮れさわぐことではない。どの国の人たちとも偏見なく誠実につきあい、できるだけ親切に気くばりをするということに尽きる。
かわきたながまさ
明治36 年東京に生れる。大正10 年中国に渡り北京大学に学び、その後ドイツに留学。帰国直後の昭和3 年、東洋と西洋の和合を願い「東和商事」を設立し、ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。翌年、同社の社員だった竹内かしこと結婚、夫婦で力を合わせて『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『望郷』『民族の祭典』など、数々の映画史上不朽の名作を輸入・配給した。昭和12 年には日本初の国際合作映画となるドイツとの合作映画『新しき土』を制作。昭和26 年、社名を「東和映画」と変え外国映画の輸入を再開。同年、ヴェネチア映画祭に黒澤明監督の『羅生門』出品に協力、その後も日本映画の国際映画祭への出品に尽力し、日本映画を世界に知らしめた。東和映画時代には『天井棧敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』『チャップリンの独裁者』などを輸入した。昭和50 年、社名を東宝東和株式会社と改称。夫人とともに海外の映画祭に出席し、国際的映画人として知られた。昭和39 年藍綬褒章、昭和48 年勲二等瑞宝章、フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章、イタリアからコメンダトーレ勲章を受ける。昭和56年5月24日、78 歳で死去。正四位に叙せられた。
かわきた かしこ
明治41 年生まれ、横浜に育つ。横浜フェリス女学院研究科卒業後、東和商事にタイピスト兼社長秘書として入社、同年、同社の創立一周年記念日に社長の川喜多長政と結婚。昭和7 年に初めて長政の映画買い付けのヨーロッパ旅行に同行して以来毎年のように夫婦揃ってヨーロッパに出かけ名作の選択に当たった。東和映画では副社長を務めた。昭和35 年にフランスから150 本程度の作品を交換しての日仏の古典映画回顧展を行いたいとの申し入れがあったが、当時の日本のライブラリー機関には十数本程度の長編映画しか収められておらず、「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織し、百本余りの作品を集めることに成功。以後、日本映画の名作の収集・保存を私財を投げ打って始め、日本映画の海外普及に尽力した。それは昭和56 年、長政の死後、故人の遺産もつぎ込み財団川喜多記念映画文化財団へと発展した。ベルリン、カンヌ、ヴェネチアなど国際映画祭の審査員を務めること26 回、〝マダム・カワキタ〟の名は世界中の映画人に親しまれている。昭和39 年文部省芸術選奨、昭和49 年紫綬褒章、昭和55 年勲三等瑞宝章、昭和56 年菊池寛賞、イタリアからカバリエレ勲章、フランスからオフィシエとコマンドールの文芸勲章と国家功労賞を受ける。平成5 年7月27日死去。正五位に叙せられた。
さとう ただお
映画評論家、教育評論家。1930 年新潟市生まれ。新潟在住のまま「映画評論」の読者投稿欄に映画評の投稿を続け、56 年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。その後、上京して「映画評論」「思想の科学」の編集に携わりながら評論活動を行う。73 年からは妻の久子と共同で個人雑誌「映画史研究」を編集・発行。96年から2011 年まで日本映画学校校長を務め、現在は日本映画大学学長。96 年に紫綬褒章受章をはじめ、勲四等旭日小綬章、芸術選奨文部大臣賞、韓国王冠文化勲章、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、ベトナム友情のメダルなどを受け、第7 回川喜多賞を妻久子とともに受賞。多くの著作があるが、最近の著書には『伝説の名優たち その演技の力』『教育者・今村昌平』『忠臣蔵―意地の系譜』『独学でよかった』『喜劇映画論 チャップリンから北野武まで』『映画で日本を考える』などがある。
鎌倉市川喜多映画記念館
川喜多長政、かしこ夫妻の旧宅跡に、鎌倉市における映画文化の発展を期して2010 年に開館した。記念館では映画資料の展示、映画上映をはじめ、映画人を招いての講演会なども開催されている。川喜多夫妻の紹介も常設展示されているので、鎌倉散策の折にはお訪ねすることをおすすめする。記念館を訪れるには、JR鎌倉駅、江ノ電鎌倉駅から小町通りを八幡宮に向かい徒歩8 分程度ということで、JR横須賀線という手もあるが、小田急江ノ島線で藤沢まで行き、そこから江ノ電に乗り換えると江ノ電の始発駅から執着駅までをフルに楽しむことができ、鎌倉の小さな旅の風情を味わうことができる。
〔住〕鎌倉市雪ノ下2-2-12
〔問〕0467-23-2500
〔開館時間〕9:00 ~ 17:00(入館は16:30まで)
〔休館〕毎月曜(祝日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始、展示替期間、特別整理期間など