~時代を先取りする日本エンタテインメント界の
トップランナー~
1953年7月14日、フランス革命記念日に浅利慶太、日下武史らを中心とした10名により演劇集団が結成された。
2023年に創立70周年を迎える劇団四季の歴史はここから始まった。
当時、イデオロギー優先で、演劇的な面白さを欠いた新劇界の潮流を懸念し、「演劇界に革命を起す」という志のもと創設され、真に観客の感動を得られる作品を上演してきた。
今や、俳優・技術スタッフ・経営スタッフ約1400名で組織される
世界的に見ても最大規模の演劇集団に発展した。
ストレートプレイ、オリジナルミュージカル、ファミリーミュージカル、そしてディズニー作品を始めとする海外ミュージカルまで〝作品主義〟のもと、作品のクオリティを最優先に考え、良質の舞台作品を世に送り出し喜びと感動を日本全国の観客に伝えるために、演劇に挑み続けている。
そして、日本国内に専用劇場を持ち、演劇を真摯なビジネスとして展開する演劇集団である。
例年、年間の総公演回数は3000回以上、総観客数は300万人を超える。
劇団四季の挑戦の歴史を、上演作品の足跡をたどりながら追いかけてみた。
文=林尚之
企画協力・写真&画像提供:劇団四季
劇団四季のミュージカル『キャッツ』が1983年11月11日に東京・新宿のキャッツ・シアターで幕を開けた。それまでのミュージカルの常識を変えた公演だった。専用の仮設テント劇場を西新宿の空き地に建設し、長くても2カ月の公演が常識だった中、1年間のロングランを完走した。テレビ局とタイアップした派手な宣伝に、当時としては画期的なオンライン販売システムを導入するなど、約19億円を投資した公演はすべてに時代を先取りした。
四季はいつも時代を先取りした。主導したのは四季創立者の演出家浅利慶太さん。1963年に日本で初の本格的なミュージカル『マイ・フェア・レディ』が上演されたが、四季は翌64年に浅利さんが取締役を務めた日生劇場の「ニッセイ日生名作劇場」で、小学生を無料招待する子供向けミュージカルを始めた。脚本は寺山修司、井上ひさしら一流の劇作家に依頼した。同じ年、日生劇場で『ウェストサイド物語』来日公演を成功させた。外貨不足の中、当時の田中角栄蔵相に直談判して実現にこぎつけた。
53年にアヌイ作『アルデール又は聖女』で旗揚げ以来、ジロドゥ作『オンディーヌ』、シェイクスピア作『ハムレット』、ピーター・シェーファーの『エクウス』などの翻訳劇、武田泰淳作『ひかりごけ』の創作劇などストレートプレイ中心だったが、浅利さんはミュージカル時代が日本にも来ると確信し、70年代にミュージカル路線に舵をきった。72年『アプローズ』、74年『ウェストサイド物語』、79年『コーラスライン』がヒットしたが、天才作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバ―との出会いが決定的だった。73年『ジーザス・クライスト=スーパースター』(当時は『イエス・キリスト=スーパースター』)、82年『エビータ』、83年『キャッツ』、88年『オペラ座の怪人』と、バラードからダンスナンバーまで心揺さぶられる楽曲が満載のロイド=ウェバ―作品は観客の熱い支持を得て、四季の大きな柱になった。
ディズニーミュージカルを日本に紹介したのも四季だった。高揚感あるナンバーとイリュ―ジョンに溢れた『美女と野獣』は95年に上演されると、観客の心をつかんだ。98年『ライオンキング』は日本初の無期限ロングランとなり、現在の上演回数は国内最多の1万3000回を超えた。03年『アイ―ダ』、13年『リトルマーメイド』、15年『アラジン』、16年『ノートルダムの鐘』と続く作品群に共通するのはヒロインが大きな役割を占めること。自らの生き方を突き進む姿は、ジェンダーレスの時代を先取りした。
ジャン・ジロドゥの研究でも知られ、ジロドゥの『オンディーヌ』に想を得たとされる戯曲『なよたけ』などを世に残した劇作家加藤道夫の戯曲を舞台化した『思い出を売る男』。劇団四季では、創立40周年記念の1992年以来、繰り返し上演している。加藤は、劇団四季の創立メンバーである浅利慶太、日下武史にとって、慶應義塾高等学校時代の恩師であり、耳に残る美しい音楽を担当した作曲家・林光もまた慶應の同窓生である。サクソフォンをふきながら「思い出」を売る男。彼の奏でる音楽に誘われて集まるさまざまな人々は、彼のメロディにより、思い出をよみがえらせていく。初演の舞台は「焦土の中で美しい音と歌を見いだした童話風のスケッチ」「想像力に希望を託した原作の忠実な再現」と高く評価された。10年後の劇団四季創立50周年に当たる記念すべき2003年での再演では、連日満席という好評ぶりだった。劇団四季の財産とも言える〝現代のおとぎ話〟の名作である。撮影:上原タカシ