~時代を先取りする日本エンタテインメント界の
トップランナー~
『クレイジー・フォー・ユー』『マンマ・ミーア!』『ウィキッド』などブロードウェー、ウエストエンドの話題作を上演する一方で、オリジナルミュージカルにも力を入れた。戦時体験のある浅利さんは『ミュージカル李香蘭』『ミュージカル異国の丘』『ミュージカル南十字星』と昭和の歴史三部作を作り上げ、友情と絆の大切さを描いた『夢から醒めた夢』『ユタと不思議な仲間たち』も再演を重ねた。
多様な四季作品に共通するのは、見ている時に「生きる喜び」を感じ、カタルシス(心の浄化)を味わい、「明日へのエネルギー」を持ち帰られること。芸術主義、啓蒙主義が新劇界の主流だった50年代に、四季は「人生は素晴らしい。生きるに値する」という感動を、演劇を通して伝えることを使命とした。時代を超えた不変の指針だった。
東京に一極集中する演劇状況を変えるため、札幌、名古屋、大阪、福岡など地方の大都市に専用劇場を建設した。東京で初演された人気作を短期間に各地の専用劇場で上演しただけでなく、東京初演が常識の中で『アイ―ダ』は大阪で初演し、東京公演は4年後だった。劇場が観客のすそ野を広げ、全国のミュージカル人口は飛躍的に増えた。専用劇場を持つことで、自在に上演スケジュールを組むことが可能となり、経営も安定した。現在も都内にJR東日本四季劇場[春][秋]、自由劇場、電通四季劇場[海]、有明四季劇場を持ち、名古屋四季劇場、大阪四季劇場の専用劇場で公演を行っている。
1989年のディズニー長編アニメーション映画『リトル・マーメイド』は、「パート・オブ・ユア・ワールド」「キス・ザ・ガール」など物語を紡ぐ名曲の数々でアカデミー賞作曲賞を受賞し、さらに、海中世界のすばらしさを歌った「アンダー・ザ・シー」は同主題歌賞も受賞という栄誉に輝いた。加えて、ゴールデングローブ賞でも、作曲賞・主題歌賞をW受賞している。作曲を手がけたのは、ディズニー映画を語るときに欠くことのできないアラン・メンケン。ブロードウェイでミュージカル『リトルマーメイド』が上演されるのは2008年のことだが、ミュージカル化に当たっては、メンケンと、作詞の故ハワード・アッシュマンによるオリジナル楽曲に加え、メンケンと作詞家・グレン・スレーターによる10曲が追加されている。劇団四季では、2013年に、『美女と野獣』『ライオンキング』『アイーダ』に続く〝四季とディズニー〟提携第4弾として日本初演を迎えた。フルオートメーションの最新フライング技術により表現される人魚のしなやかな動きや、まるで海底を泳いでいるかのような魚たちは、演劇的想像力に満ちた手法で表現され、観客はおのずと海中の住人になっていることに気づかされる。新たな体験を楽しむことができる『リトルマーメイド』は観客を未体験のミュージカル世界へといざなう水先案内人だ。©Disney撮影:堀勝志古
四季の勢いは海外にも及んだ。91年に『ジーザス・クライスト=スーパースター』ロンドン公演を行い、目の肥えたロンドンっ子の喝采を浴びた。92年に『ミュージカル李香蘭』を舞台となった中国・東北部で上演し、06年には韓国ソウルで韓国人俳優を起用して『ライオンキング』を1年間ロングランした。アジアにミュージカルの種を植え付けた。
新劇は舞台出演だけでは食べられないという常識を、打ち破ったのも四季だった。60年代に月給制を取り入れ、公演回数が増えるとともに俳優の出演回数も増え、収入が上昇した。年収1000万円を超える俳優は数十人もおり、安心して舞台に打ち込める環境を整えた。
四季では見る人に台詞が明快に伝わるように、「母音法」と呼ばれる朗唱術を徹底した。「モトシキ」と呼ばれる四季出身者は鹿賀丈史、滝田栄、市村正親、山口祐一郎、石丸幹二、堀内敬子、濱田めぐみら数多いが、共通するのは口跡の良さにある。故平幹二朗さんや北大路欣也、石坂浩二も若き日に四季で薫陶を受けたと聞けば、納得するだろう。
2010年代には年間公演回数は3000回を超え、年間売上は約240億円と、世界に類のない大劇団に育てた浅利さんは15年に四季を去り、18年に85歳で亡くなった。精神的な後ろ盾を失った四季をコロナ禍が襲った。公演回数も売上も激減した。創立以来の危機の中、21年6月に当初予定より9カ月遅れでディズニーミュージカル『アナと雪の女王』の幕を開け、前後して新作のオリジナルミュージカル『ロボット・イン・ザ・ガーデン』、ファミリーミュージカル『はじまりの樹の神話』を上演した。22年4月には細田守監督のアニメ映画をもとにした新作ミュージカル『バケモノの子』の上演を予定している。危機は良質の作品を上演することでしか乗り越えられない。23年に創立70周年を迎える四季は時代を先取りしながら、日本のエンタテインメントのトップランナーとして走りを続ける。
はやし なおゆき
1978年、日刊スポーツ新聞社に入社。主に演劇・演芸を担当し、年に300本以上の舞台を観劇。2020年に退社。劇団四季の舞台は高校時代に『オンディーヌ』を初観劇。担当になってからはほぼすべての舞台を見ている。現在、文化庁芸術祭企画・審査委員、国立劇場養成事業委員などを務める。