─── 国技の語り部が伝える名力士たち
語り下ろし/写真提供 杉山 邦博(文責・編集部)
名場面、名勝負の土俵に人生あり
杉山アナウンサーは、56歳でNHKを定年退職し、引き続きBSの大相撲放送のスタート時などでも実況を続け63歳まで40年余りにわたってマイクを前にした。昭和の大相撲から平成に入って間もなくの若・貴兄弟フィーバーも伝えてきたことになる。しかし、その後も花道横の定席から今日まで、忘れられない名勝負、名場面を見続けてきた。「抑制の美」を伝えるために。
◇猛稽古を厭わぬ力士たち
現在は40以上の相撲部屋がありそれぞれ稽古にも特徴がありますが、出羽一門、二所一門の稽古場は緊張感が違いました。私が見てきた一番稽古をした人を挙げろと言われたら、横綱北勝海、大関若嶋津、関脇富士桜、そして横綱大乃国らが思い浮かびます。
富士桜は、身長176センチで小柄でしたが、頭からぶちかまし、突っ張りと押しで、どんな相手にも真っ向から立ち向かっていきました。「突貫小僧」の異名を持ち、「稽古をしないと酒がまずい」というだけあり、角界酒豪番付では横綱級。激しいぶつかり合いの稽古をしていたとき、髷の紐が切れたのです。土俵の若い者が応急処置をするのですが、「早くしろ!」という富士桜の声が今でも耳に残っています。だからあの小さい体で関脇までいったのです。
若嶋津は二子山部屋に入門したときあまりに体が細く、親方(初代若乃花)から「お前、割り箸みたいだな」と言われましたが、親方は若嶋津の大きい足を見てこいつは伸びると見たそうです。当時部屋には若・貴兄弟、二代目若乃花、隆の里、太寿山などもいたなか、群を抜く激しい稽古をしていました。
北勝海は、昭和54年3月場所、111人もの力士が入門し同期には北尾はじめ注目された若者が何人もいました。元横綱北の富士が師匠を務める九重部屋に入った北勝海(当時保志)は、うまくいけば十両だろうと、あまり期待されていない力士でしたが、実にひたむきに稽古を続けました。同部屋の千代の富士の胸をめがけて何度もぶつかり、転がされては起き上がり、まっすぐ押したて、また転がされ、この繰り返しでした。顔面蒼白、唇は紫色、ゲーゲーとせき込みながら、なおも起き上がりぶつかるその姿は壮絶を極めました。稽古を終えた北勝海に「つらいでしょう」と声をかけると、「自分は相撲の稽古をつらいと思ったことは一度もありません。父は北海道の漁師で毎晩出漁していきます。寒かろうと、海が少々荒れようとも、休まず働き続ける父に身をもって教えられました。父の仕事に比べれば、相撲の稽古をつらいなどとは言っていられません」と即座に返ってきました。