シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
昨年の紅白歌合戦で天童よしみが、「道頓堀人情」を歌い終わったころだった。
「今年も森昌子は出ないわね。紅白で歌う姿をもう一度みたいわ」と、みかんの皮をむきながら母がつぶやいた。
母は、森昌子の長年のファンだ。特に好きなのが、「哀しみ本線日本海」と「越冬つばめ」である。「ヒュールリー、ヒュールリー、ララ」と鼻歌交じりで、家事をする姿はとても生き生きしていた。そんな母の何回目かの誕生日、「越冬つばめ」のドーナツ盤を贈ったこともあった。紅白歌合戦で、森昌子が紅組の司会をして優勝したときも、トリで涙を流しながら歌う姿にも母はもらい泣きしていた。母だけではない、父も私も涙が潤んでいた。
森昌子は、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」に出場し、都はるみの「涙の連絡船」を歌って初代グランドチャンピオンになった。司会の萩本欣一に肩をたたかれ「昌子ちゃん、よかったねー」という言葉をかけられると泣き出してしまうような、真ん丸の目が印象的な13歳のあどけない少女だった。
太陽のように明るく、元気な女の子というイメージを抱いていたが、自身の著書『明日へ』(幻冬舎)、『母親力 息子を「メシが食える男」に育てる』(SB新書)を読むと、それは覆された。ひとりっ子で内気、母親が病弱で祖父母に育てられた昌子は、音楽好きな父親に3、4歳の頃から美空ひばり、畠山みどり、島倉千代子らの歌謡曲を歌わされていた。父は娘を歌手にしようなどという下心があったわけではない、娘に何か楽しみを与えなければいけないという親心からだった。小学校でも昌子の歌は評判になっていったが、むしろ苦痛だったという。父の仕事の関係で宇都宮から東京の小学校に転校したものの、なかなか馴染めず脱毛症になってしまうほど気弱だった。けれどもそれを克服したのが得意な走ることだった。将来は体育の先生になることを夢見る少女だったのだ。
昌子が中学1年生の夏休みが終わったころ、10月から「スタ誕」が始まることを叔母がどこからか聞きつけて来た。自分とは無縁の世界と思って聞き流していた昌子だが、「洋服を買ってあげる」という叔母の言葉に乗せられ有楽町そごうへ行くと、そのまま「スタ誕」の予選会場へ行くことになってしまったのだ。叔母も昌子の引っ込み思案な性格を何とかしたいと、人前で歌うことで何かの役に立つのではと考えたという。森昌子の歌う姿を見て追うように「スタ誕」に応募したのが桜田淳子や山口百恵だった。もし叔母の無理強いがなければ、桜田淳子も山口百恵も歌手になっていなかったかもしれない。人生とは面白いものだ。
学校へ通えることを条件に所属事務所はホリプロに決まり、阿久悠作詞、遠藤実作曲による「せんせい」でデビューが決まった。この時点で学園三部作の「せんせい」「同級生」「中学三年生」が全て完成しており、遠藤実の家でレッスンが始まるのだった。女性最年少の15歳で紅白歌合出場(当時)、新宿コマ劇場で史上最年少座長として「森昌子公演」を行ったのは21歳のときだった。突然敷かれてしまったレールの上を「森昌子を演じる」ことで続けていくしかなかった。