シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
街に海外からの観光客がものすごい勢いで増えている。銀座などを歩いていると、英語だったり韓国語だったり、あるいは耳慣れない外国語が耳に入って来る。伯母のお墓参りで年に何回か利用する京成電鉄の町屋駅だが、コロナ禍では車両にほとんど人影が見えない特急スカイライナーが通り過ぎていた。しかし今年2月の車内はにぎやかだった。約3年に亘り世界を襲った新型コロナウイルス感染症の恐怖は、すっかり影を潜めた感じだ。上野から成田空港まで40分足らずのスカイライナーを見送っていると、しばらく行っていない海外旅行への願望がふつふつと湧いてくる。
1978年の開港から昨年は45周年を迎え、羽田と並ぶ国際空港になった成田空港。開港までには幾多の紆余曲折があったことは記憶に新しい。1960年代の高度成長にともない、航空需要が一気に増え、政府は羽田に変わる国際空港の建設を急いだ。千葉県の浦安市や、茨城県の霞ケ浦などいくつかの候補地があがったが、千葉県の富里市が空港建設地に発表されると、地元からの強力な反対が起こり断念することになった。用地取得のハードルが低いことなどから、66年7月の閣議で、成田市の三里塚地区に突如決まった。しかしこちらも反対運動が高まり難航。成田闘争はテレビでよく映されていた。
77年11月運輸省は、新東京国際空港の開港日を78年3月30日と発表するが、直前に起こった空港反対の過激派事件により開港日は同年5月20日に延期され、当初の計画より縮小したA滑走路一本での開港に何とかこぎつけたのだ。この日は式典のみで航空機の発着はされなかった。翌日の21日に日本航空の貨物機が、ロサンゼルスからアンカレッジ経由で到着。成田空港からの出発第一便は大韓航空の貨物便で、旅客の初便は、サイパン経由グアム行きの日本航空947便、乗客111名、運航乗務員3名、客室乗務員7名を乗せての運航だった。開港時の乗り入れ航空会社は34社だったが、2023年4月時点では88社、就航都市数は119都市120路線まで広がっている。
成田空港開港と同年4月1日にリリースされたのが庄野真代の「飛んでイスタンブール」だった。作詞・ちあき哲也、作曲・筒美京平、編曲・船山基紀による、トルコ最大の都市イスタンブールを舞台にした異国情緒豊かな曲で、庄野の5枚目のシングルである。
高校生の時からバンド活動をしてオーディションに出ていた庄野だったが、パッとせず、二十歳の誕生日にもう音楽はやめようと、最後に「フォーク音楽祭」の出場を決めた。大阪出身の庄野は関西四国決勝大会でグランプリに輝き、日比谷野外音楽堂での本戦に臨んだが選外に終わる。しかし大会に来ていたレコード会社から「アルバムをつくりませんか」と声を掛けられ、76年アルバム『あとりえ』をリリースしてレコード・デビューしたのである。都会的な大人の雰囲気をもつシンガーソングライターとして注目されたが、なかなかヒットに恵まれなかった。デビューから2年目、ディレクターが変わり、作曲家の筒美京平の曲を歌うことになり、幾本かのデモテープの中から「飛んでイスタンブール」が決まったのだった。