シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
一昨年の9月、まだ真夏日が続く土曜日の夕刻だった。横須賀芸術劇場で行われた稲垣潤一の40周年記念のコンサート「40th Anniversary 稲垣潤一Concert 2022」に出かけた。まだコロナ禍の終息が見えないときで、コンサートに出かけることを躊躇ったが、そんな時だから奇跡的にチケットもとれたのかもしれない。
久しぶりにみた稲垣潤一は、「え、69歳?!」とは感じさせないパワーだった。瑞々しく艶のある声、無心にドラムを叩きながら歌い、はにかみながら話す姿も昔のままだった。
「夏のクラクション」「ドラマティック・レイン」「オーシャンブルー」「ロング・バケーション」「雨のリグレット」「エスケイプ」「バチュラー・ガール」「思い出のビーチクラブ」……。車の中で何度聴いたことだろう。高速道路を走るときも、海岸線を走るときも、山道をひたすら上っていくときも、稲垣ワールドにどっぷり浸っていた時期があった。ステージの稲垣を見つめながら、その頃の想い出があふれてきた。
といって、稲垣潤一のことを多く知っているわけではなかった。稲垣にとって横須賀は若い頃米軍のキャンプで歌っていたという思い出の地だったのだ。そんなことを訥々と話し始めた。
仙台で生まれた稲垣は、ビートルズに魅せられ中学生の時から本格的なバンド活動を始めた。プロのミュージシャンになる夢があったが、夢はしょせん、夢でしかないと、高校卒業後、教師に言われるまま大手電気メーカー関連商社の仙台支店に就職した。しかし入社1日でサラリーマン生活が終わった。入社した日の終業近くに高校時代のバンド仲間から、ドラマーがいなくなったから演奏に出てくれと頼まれた。仙台で一番の歓楽街の国分町にある有名な店にすぐさま駆け付けた。翌日からスーツと革靴はいらないと会社を辞める決意をし、ディスコやキャバレーで生演奏を聴かせる「ハコバン」の一員としての生活が始まった。
19歳のとき一度東京に出たが、メンバー間の確執や、ギャラの未払いにあい極貧の生活。夢破れ逃げるように仙台に帰ってきた。それでも仙台のライブハウスや立川や横須賀の米軍キャンプで演奏を続けた。当時大ヒットしていた、「およげたいやきくん」を店長に懇願され歌うこともあったそうだ。客の目的はお酒やホステスで、バンドはあくまでBGMで付録だ。バンドの仲間が「ハコバン」をやめていく中、稲垣は約9年間ドラムを叩き、歌った。
今ではタレント事務所が自らオーディションやスカウトを行っているが、テレビ局がタレントの発掘を主導していた時期があった。「すごいヴォーカルが仙台にいる」と聞きつけたフジテレビのプロデューサーに稲垣潤一は見出された。ドラマーが独特の声で歌うのは斬新だった。そして1982年(昭和57)1月21日東芝EMIから、「雨のリグレット」で遂にデビューを果たした。作詞は湯川れい子、作曲はオフコースのメンバーの松尾一彦、編曲は井上鑑。28歳の新人歌手だった稲垣についたのは「スパーポップヴォーカル」というキャッチコピーだった。ハイトーンで今までにない声質の稲垣をよく表している。私は長い間3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」(82年10月21日リリース)がデビュー曲だと思っていた。ザ・ベストテンにも登場したしCMで耳にする機会が多かったからだろう。