シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
今も語り継がれる名作舞台、秋元松代作、蜷川幸雄演出『近松心中物語』の初演は、1979年2月~3月の帝国劇場だった。近松門左衛門の人形浄瑠璃『冥途の飛脚』をベースに、『ひぢりめん卯月の紅葉』『跡追心中卯月のいろあげ』を織り交ぜて書かれた作品で、添い遂げるために心中を余儀なくされる2組の男女の物語。1組はドラマティックに心中を遂げる忠兵衛と梅川。それに対して死に切れなかった与兵衛と、一人死んでいくお亀というカップル。この2組の心中模様の二重構造が、多層的な人間ドラマを描き出し、忠兵衛を平幹二朗、梅川を太地喜和子、与兵衛を菅野忠彦(現・菜保之)、お亀を市原悦子というキャスティングだった。そのほか、山岡久乃、金田龍之介も出演していた。その主題歌が、森進一が歌う「それは恋」だった。舞台の主題歌というのも珍しいという印象を持ったが、さらに森進一が歌うというのが、画期的に思えた。2年後の再演時には芝居のタイトルも『近松心中物語 それは恋』となっていた。「それは恋」の話の前に、いまさらという気がしないでもないが、改めて森進一について少し話をしてみたい。
森進一のデビュー曲は、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による66年リリースの「女のためいき」だった。それまで美声が主流だった歌謡界において、森のかすれた独特のハスキー・ボイスは衝撃的でさえあった。当時、小学生だった僕の耳にはなじむはずもなく、まったく縁のないところに存在する歌手であった。だが、デビュー曲は大ヒットした。ほぼ同時期に同じビクターから「恍惚のブルース」でデビューした青江三奈とともに〝ためいき路線〟として売り出された。ただ、青江三奈が同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たしたのに対して、森進一が紅白歌合戦に初出場となるのは68年の「花と蝶」まで待たねばならなかった。もしかしたらセクシーという魅力の女性のハスキーと違い、森進一のかすれた声はゲテモノ趣味の一発屋と見られていたのかもしれない。だが、森進一の歌唱力が認知されたことは、紅白初出場にして出番がトリ前というポジショニングだったことでも証明されたのである。
デビュー以降、「命かれても」「盛り場ブルース」「花と蝶」とコンスタントにヒット曲を出し、聴く人の耳にもなじんできたのか、〝森進一節〟が歌唱力を伴った味わいとして認知されるようになったのではないだろうか。
その後の勢いには、目を見張るものがあった。「年上の女」に続いてリリースした「港町ブルース」は、69年度日本レコード大賞で最優秀歌唱賞に輝やき2回目の出場にして紅白歌合戦で白組のトリを務めた。翌70年も「銀座の女」で白組のトリ、さらに71年には「おふくろさん」で2度目の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞、そして3年連続で白組トリを務めた。その3年間、大トリを務めたのは美空ひばりだった。
69年の紅白で歌ったのは「冬の旅」で、翌年には「襟裳岬」で、ついに大トリを務めた。74年にリリースされた「襟裳岬」は、フォークソング全盛期のゴールデン・コンビである、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲という楽曲で、日本歌謡大賞、日本レコード大賞でも大賞に輝いた。ちなみに紅白での対戦相手である島倉千代子が歌ったのも、彼女のかつてのヒット曲「襟裳岬」で、同名タイトル曲の対決となった。
この「襟裳岬」は、森進一の中にある演歌の枠にとらわれず、幅広い音楽の領域に挑戦するという音楽心を刺激した曲になったようだ。松本隆作詞、大瀧詠一作曲、前田憲男編曲の82年リリースの「冬のリヴィエラ」、松本隆作詞、細野晴臣作曲、坂本龍一編曲の83年の「紐育物語」しかりである。そのほかにも、松山千春作詞・作曲の「待たせたね」、安井かずみ作詞、加藤和彦作曲「夢・ステファニー」、阿木燿子作詞、井上陽水作曲「風のエレジー」、谷村新司作詞・作曲「悲しみの器」、シャ乱Qのまこと作詞、はたけ作曲の「夜の無言(しじま)」、岡本おさみ作詞、細野晴臣作曲「ウイスキー色の街で」、長渕剛作詞・作曲「狼たちの遠吠え」、小室哲哉作詞・作曲・編曲「眠らないラブソング」なんていうのもある。
NHK紅白歌合戦には連続48回出場しており、大トリを9回、白組トリを6回務めている。「おふくろさん」を歌ったのは8回で、紅白でのラストステージでも披露している。次に多いのは「襟裳岬」の4回、「冬の旅」、「北の螢」、「花と蝶」、「港町ブルース」、「冬のリヴィエラ」がそれぞれ2回で、いずれも誰もが納得するヒット曲である。
「それは恋」は森進一53枚目のシングルで、作詞は『近松心中物語』の戯曲を手がけた日本が誇る劇作家・秋元松代、作曲は猪俣公章。舞台『近松心中物語 それは恋』の再演の初日直後の81年11月5日にリリースされている。初演時にはなかった「それは恋」がタイトルにつけられたのは、森進一が歌う主題歌の反響の大きさによるものだったのだろうか。