シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
歌手・山本リンダになる前のモデル時代の、雑誌の表紙や写真の切り抜きをいったいどのくらい集めただろう。雑誌に彼女を形容する〝妖精〟という言葉が載って、意味も分からず辞書をくくった憶えがある。二つ下のまさに妖精のような彼女の切り抜きは、小学生から中学校に通うようになっても終わらなかった。思い起こしてみれば、手の届かない女の子に遠くから恋焦がれた〝初恋〟だったのかもしれない。結構熱烈な恋心を抱いていたように思う。映画『男はつらいよ』(1994年=平成6)第47作目、寅さんが甥の満男に言い聞かせる言葉がある。柴又駅ホームで旅に出ようとする寅さんは、こう満男を諭すのだ。
「燃えるような恋をしろ。大声出してのたうち回るような、恥ずかしくて死んじゃいたいような、恋をするんだよ」
長じて40歳半ばのボクがこのセリフと出合ったとき、菓子箱に一杯詰めた彼女の写真類を姉に見つけられた30年も前の思い出が重なった。「のたうち回るような、恥ずかしくて死んじゃいたいような」思いだったのだ。まだ、「山本リンダ」を名乗る前の本名「山本あつ子」は、ファッション雑誌『装苑』の専属少女モデルとして世に出ている。中学生にもなっていなかった。その後『美しい十代』『若い女性』などの雑誌のグラビヤや表紙を飾り、そこから一躍飛び出してNHKのテレビ番組「夢のセレナーデ」にレギュラー出演するようになった。一日の放送を終えるのは夜の12時、その30分前のクラシック音楽中心の音楽番組で、この番組だけは母と一緒に目をこすりながら見ていた。番組の終了間近になると、彼女はピアニストの横で頬杖のポーズをとったりバイオリニストと一緒に物思いにふけったりする、いわゆるカバーガール(当時はマスコットガール)だった。番組の終わりの合図のように、彼女は微笑みながら目をつむると同時に「おやすみなさい」とテロップが入った。映されている彼女は眠りにつく妖精そのものに思えた。
人気少女モデルとして頂点にいたころ、世界中でブームを起こしていた同世代のイギリス人モデル「ツイッギー」とファッションショーで共演している。ツイッギーは、まさに〝小枝のような〟痩身でヒザ上30センチのミニスカートが話題だった。わが姉は女性週刊誌『女性自身』の新米編集記者で、ツイッギー来日の動向を追っていて、彼女が着ていたピンクのワンピースがぴったり合ったからとプレゼントされるという余慶に与ったのだ。ショーで共演した山本あつ子は、〝ジャパニーズ・ツイッギー〟と呼ばれるほど人気を勝ち取っていた。今なら〝追っかけ〟ファンだったボクは、姉にくっついてファッションショーの舞台のソデで山本あつ子を食い入るように見つめていた。生(ナマ)の妖精を間近にした興奮は今も忘れられない。
やがて、山本あつ子に転機が訪れる。モデル時代から歌のレッスンを忘れなかった彼女に、「歌手になりたい」という念願の道が開かれる。作曲家・遠藤実との出会いだ。モデルクラブから芸能事務所に移って「山本リンダ」を名乗り、1966年7月、初めて遠藤実と挨拶を交わす。遠藤が挨拶代わりに、「リンダくん、君にはボーイフレンドがいるの?」と問いかけると、思わず発したのが「困っちゃうな」だった。モジモジしながら困っちゃうなと言ったリンダに遠藤はインスピレーションを得て一気に書き上げたのが、デビュー曲「こまっちゃうナ」(ミノルフォン)なのである。リリースされたのは同年9月20日、じわじわとヒットチャートを上って、間もなく100万枚を超す大ヒット曲となる。