
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
これまで関わってきた映画で、特に、貴重な出会いとなった女優は、薬師丸ひろ子さんと原田知世さんだ。
フジテレビに入社して、いきなり『南極物語』(1983公開/蔵原惟繕監督)に関わることになった当初、高倉健さんの名前と薬師丸ひろ子さんの名前がキャストとして挙がっていた。
すでに角川映画『野性の証明』(1978)、『翔んだカップル』(1980)で大スターだった彼女は『探偵物語』(1983/根岸吉太郎監督)の主演女優として、我らの『南極物語』との夏休み映画対決となる。因みに、『探偵物語』の併映は原田知世主演の『時をかける少女』(1983/大林宣彦監督)。当時は最強の2本立てで、製作発表段階から角川春樹さんは「日本映画の興行記録を塗り替える!」(それまでの記録は『影武者』の配収25億円)と。
『南極物語』より1週間早く公開(1983/7/16)され、スタートダッシュ良く、記録更新が確実視され、結果は配収28億円で日本一のはずだった。ところがダークホースだった『南極物語』(7/23公開)が8月に入り、〝ファミリー映画〟になり、一気に抜き去り、配収60億円弱(興行収入換算では100円億以上)の大ヒットになった。
『南極物語』の製作発表時に製作指揮の鹿内春雄さんが「目標配収は15億円位で言おうかな」と言うのを周りが「角川2本立てが《影武者を抜く!》と言っているので、こちらも25億円以上! にした方が……」という様なこともあったのか、翌日のスポーツ紙には「目標配収25億円」と載った。角川春樹さんにとっては『犬神家の一族』(1976)以来、段階を踏んだ上での日本一宣言、ただフジテレビにとっては初体験のようなもので数字のことは付け焼き刃的ではあったが、「フジテレビ開局25周年記念映画」としたので「25」はちょうどピッタリだったのか……。
思えば、その後、角川春樹さんにとっての日本一への再チャレンジが『天と地と』(1990)であった。『南極物語』の数倍の50億円以上の製作費をかけ、自ら監督したが配収50億円強に終わり、『南極物語』には届かなかった。
『天と地と』は東宝配給で発表された。しかし、配給(劇場)歩率などお金の取り分に関わる交渉が決裂し、公開1年前の土壇場で東映配給に変更。変な巡りあわせだが、東宝の夏休みチェーンが空いてしまい、結果、穴埋めの如く? 自分にお鉢が待ってきて急遽、1週間程度で企画書を書いたのが『タスマニア物語』(1990)だ。皮肉ではないが、元角川春樹事務所の薬師丸ひろ子さんに出演してもらった。












