ちょうど30年も前になろうか。バブル経済の終焉が近づいていたものの、余韻はくすぶっていた。東映会長・岡田茂に「福沢諭吉」を映画にできないかと持ち掛けたのは、ほかならぬ佐藤正忠(経済界主幹)だった。岡田は、「ええよ!10億出せるか」と即答。一瞬詰まった佐藤、「切符を売りますよ」と。あうんの呼吸だった。いわば親分同士の口約束。茂の息子、大泉の東映東京撮影所長だった岡田裕介との縁は、この時から始まった。
あわてて会社を訪ねてきた裕介が言った。初対面の挨拶も名刺交換もそこそこに「こりゃ半端な数字じゃない。10億円出せるんですか」。裕介は親父から企画担当をすでに命じられていた。「キャスティングの都合もあるし、実行総予算によって映画の出来が変わる、10億出来なきゃ出来ない中でどうするか考えたい」。
痛く心配顔で私にいたわりと同情の目を向けてくれた。「分かりました。10億円の調達は切符を売れ、と佐藤から言われています。やってみます」心配そうで訝しげだった裕介の顔が忘れられない。この時、岡田裕介という同い年の男の人間的優しさを見た。
10億円という数字はその数年前、商社のトーメンが創業何十周年かの記念で映画製作をするというところに原点があった。日本の商社マンの原型となぞらえて、江戸時代から明治にかけて跋扈した「高田屋嘉兵衛」をモデルにした企業丸抱えの映画だった。商社の10億円など大した額ではない。ところがこちらはそんな金はどこにもない。一か八かの話に銀行が出してくれるわけもない。
前売り券1300円、100万枚で13億円、10億円を東映に、3億円はわが利。アバウトな目標を立て、私は先頭に立った。できるかできないかわかるはずがない。とにかく、佐藤正忠が映画をつくる、というだけで企業回りが始まった。○○製紙2憶、◎◎百貨店2憶、△△工業1憶、前売り券の枚数よりまず金額、協賛金のような出し方で、中核的な会社が瞬く間に乗ってくれた。トップダウンの命令が交渉の場、面前で繰り広げられるバブル経済の最後の花火の閃光のようだった。2億円なら15万3000枚余り、台車に乗せたチケットが次々と運ばれた。終わってみると、総合計約120万枚の前売り券が売れた。券の裏面には買い上げた企業の広告を刷った。そうしなければ交際費になり、さらに余計な負担が生じるため広告費にした。お陰で、10億円は無事東映に納められ、5億円以上の利益を得ることができた。
主演の福沢諭吉に柴田恭兵、仲村トオル、南野陽子、若村麻由美、榎木孝明等豪華キャストだった。出陣のパーティーの席上、仲村トオルは、東映京都撮影所での日々を、「撮影所でこんなに高い弁当を食べたことがない、楽しい現場でした」と語って笑わせた。製作費にゆとりがあったという現れだろう。岡田裕介は、そんな荒業をじっと見ていて言った。「久しぶりに社内が沸いたよ。100万枚なんて誰も信じなかったからな」。その後、「千年の恋 ひかる源氏物語」「北の零年」など彼がプロデュースする作品に手を貸すことになった。同時に父君・岡田茂の信用も買うことができた。困ったときの岡田親分だった。
現在の映画界はかつての5社体制も消し飛んで、互いに連携して興行が行われている。東映系のシネマコンプレックス「ティジョイ」(岡田裕介社長)でも、東宝、松竹作品が観られるという形で、興行館ではすでに合従連合しているのだ。実はこれも岡田裕介の業績として伝えるべきであろうし、シネコンをフィルムからデジタル映像に進化させたのも岡田裕介である。彼にそのことを言うと、「自分がやったなんて手柄話はくだらない」と照れ隠しの薄ら笑いもなく平然と言っていた。
父・岡田茂は押しも押されもしない映画界のドンとして君臨した。その後継者である。ひ弱さなど微塵も感じられなかったが、ストレス、プレッシャーがなかったとは言い難い。本人は何事もないように常に泰然自若として「親父は親父、俺は俺」の姿勢を貫いていた。しかし東映という企業ばかりでなく、映画界を背負って立っていることに、裕介のクリエイターとしてのナイーブさ、繊細さが仇になっていなかったか。盟友吉永小百合さんは、「心労が重なっていたのでは…」とコメントした。優しかった男のあまりにも早い死を悼む。(コモレバWEB主宰 布施田 次郎)
以下2020年8月5日 インタビュー続く