1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
成城の街は、成城小学校が1925年(大正14年)に牛込からこの地へ移転するにあたり、成城学園が主導して造成されたもの。並木道を形成する‶成城名物〟いちょうの木が、大岡昇平など成城小学校の生徒たちの手で植えられたことや、いちょう並木で撮影された映画については、第9回でご紹介したとおりだ。
本稿がアップされる頃には咲き誇っていると思われる桜の木も、実はいちょうの木と同様、成城学園の子供たちが植樹したものだという。成城学園内を流れる仙川沿いにある桜の木もそれは見事なものだが、下流に位置する東宝撮影所内の桜は、満開の時期にはスタジオの照明機材によりライトアップされ、毎年近隣住民の目を楽しませている(ここ数年はコロナ禍により実施されず)。こちらの桜は、東宝(東京宝塚劇場)の創設者・小林一三の命で植えられたものだと、美術監督の竹中和雄さん(註1)から伺った記憶がある。
そうした歴史もあってか、成城の街ではほとんどの道路に桜の木が植えられ、今も駅から通じるメインの桜並木では、3月末になると商店街振興組合により「さくらフェスティバル」が開催(やはり、ここ数年は開催されず)。学園で学んだ森山直太朗が成城の桜を自曲「さくら(独唱)」発想のもととしたことも、知る人ぞ知る逸話である(註2)。
この成城の桜並木、満開の姿が見られる映画は意外に少なく、筆者の知る限り、東宝クレージー映画の一篇『日本一のホラ吹き男』(64年)と日活の浦山桐郎監督作『私が棄てた女』(69年)くらいしかない。
古澤憲吾が監督した『日本一のホラ吹き男』では、成城駅前の「吉田書店」(植木等が、守衛として潜り込んだ「増益電機」社長の伝記本を探す)店頭や、国分寺崖線上にあった住宅の庭先(浜美枝と結婚後の新居=成城四丁目)がロケ地に選定。ところが、植木が挿入歌「私はウソを申しません」(註3)を歌う場面は、明らかに成城と思われる桜並木で撮影されてはいるものの、夜間シーンの上、何の目印もヒントもなく、今ひとつ確証が持てずにいた。かくして、長年、当シーンのロケ地を模索していた筆者に、これが成城の桜並木で撮られたものと示唆してくれたのは、筆者のバンド仲間・I氏であった。
I氏はかねて亡き母親(当時は成城七丁目に居住)から、こう言われていたという。「お前が子供だった昭和39年の桜の季節、夜中に家の前に撮影隊がやって来て、植木等が馬鹿踊りをして帰っていった――」と。ということは、本歌唱シーンを撮った桜並木が成城のそれであることにほかならず、積年の疑問は氷解。この撮影場所が、成城七丁目8ー8の路上(上記「さくらフェスティバル」が行われる桜並木)であることが明らかとなった。
もう一本の『私が棄てた女』(遠藤周作の小説の映画化)は、浦山桐郎監督の第三作目。主人公(河原崎長一郎)が学生時代に棄てた女・ミツ(小林トシエ)が、憧れの女優の家を訪ねるシーンは成城で撮影されていて、北口駅前の桜は満開、女優の家も成城の桜並木にある設定となっている。古くからお住まいの方に聞けば、この家はのちに某東宝女優がご主人と住む家(現在は建て替えられている)であり、画面からも女優が住むに相応しい豪邸であることがうかがえる。
加えて、その帰りにミツと友人がみつ豆か何かを食べる店は、成城北口にあった和菓子店「青柳」の喫茶室(2011年閉店)。よほど成城がお気に召したのか、浦山桐郎は十四年後の『暗室』(83年/にっかつ創立七十周年記念作)でも、当地の桜並木や成城駅前ロケを繰り返している。
他にも、桜は咲きほこらないものの、当地成城の桜並木で撮影された映画は数多い。古くは、戦前の東寶作品『江見家の手帖』(39年/矢倉茂雄監督)で主人公・江見安太郎(徳川無声)の転居先に設定、前号で触れた『銀座カンカン娘』(49年/新東宝)では高峰秀子が仔犬を捨てるのに苦労するシーンで登場するほか、市川崑監督のライト・コメディー『愛人』(53年)には、三国連太郎が学園脇の桜並木を歩くいくつかの場面がある。
『愛人』で映画監督役の菅井一郎と娘の有馬稲子(註4)一家が住む家は、成城学園の講堂「母の館」(註5)傍の邸宅でロケされており、卒業生には今でも撮影の様子を懐かしむ方がいるほどだ。
昭和30年代の東宝映画でも、成城の桜並木は頻繁に登場。江利チエミが漫画そっくりにサザエさんを演じたシリーズ第五作目『サザエさんの結婚』(59年)では、その父親(藤原釜足)と母親(清川虹子:映画では波平とフネとの名前はついていない)が駅から続く桜並木を歩くシーンが見られる。並木道の西側には‶成城名物〟の鉄塔(送電線=川世線)がそびえるので、位置関係もよく分かる。当シリーズは、全十作とも成城住まいで〈成城ロケ好き〉の青柳信雄が監督したことから、第四作『サザエさんの青春』(57年)の他、多くの作品に桜並木やいちょう並木の懐かしい風景が焼き付けられている。
『現代サラリーマン 恋愛武士道』(60年/松林宗恵監督)、『サラリーマン権三と助十 恋愛交叉点』(62年/青柳信雄監督)や『国際秘密警察 火薬の樽』(64年/坪島孝監督)で見られる桜並木はそれぞれ異なっており、これはそれほど成城に桜並木が多い証拠。名匠・成瀬巳喜男監督の遺作『乱れ雲』(67年)では、交通事故で夫(土屋嘉男)を失った司葉子のアパートが小田急線南側の桜並木(旧石原裕次郎邸、東宝撮影所に通じる)にある設定で、弔問に訪れた加山雄三(事故の当事者)や中丸忠雄が並木道を歩く。
ちなみに、日活の『ハレンチ学園』二部作(70年/丹野雄二監督)と東宝の『三婆』(74年/中村登監督)でロケ地となったのは、やはり成城の桜並木にある同じ家(F邸)で、そのお宅の土塀は今でもしっかりと残されている。当邸宅前の路上で撮影されたのは、前述の『サラリーマン権三と助十 恋愛交叉点』と神代辰巳監督の初東宝作品『青春の蹉跌』(74年)。ショーケン主演による成城ロケ映画『青春の蹉跌』については、次回で詳述させていただきたい。
(註1)『七人の侍』、『浮雲』で美術助手を務めたのち、若大将シリーズやクレージー映画など、東宝娯楽映画の主要作品を担当する。
(註2)詞を共作した御徒町凧も成城学園出身で、森山直太朗の1年後輩にあたる。
(註3)この曲名は、当然ながら「所得倍増計画」に関する池田隼人(首相)発言のもじり。
(註4)以降、市川崑とのコンビ作が続いた有馬稲子は、17歳年上の某(!)監督と悩ましい関係に発展したことを自著で明かしている。
(註5)講堂「母の館」の姿が見られる映画は数多く、代表的な作品に『恋の応援団長』(52年)、『まごころ』(53年)、『潮騒』(54年)、『ベビーギャングとお姐ちゃん』(61年)、『日本一の若大将』(62年)、『こんにちは20才』(64年)がある。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に程近いS大を選択。卒業後はライフワークとして、東宝作品を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆、クレージー・ソングのバンドでの再現を中心に活動。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同/2022年1月刊)がある。