20.07.03 update

本と標本箱の重圧

私の生前整理 2016年7月1日号より

文=奥本大三郎
(フランス文学者・作家)

ファーブル『昆虫記』を
ライフワークにしたばっかりに

「人生の前半は、散らかし放題に散らかし、後半は、その整理に費やした」というようなことを言ったのは、カサノヴァではなかったか。初めてこの文句を聞いた時は「大袈裟な」と思ったけれど、結局は私も似たようなことをして来た。ただし、カサノヴァのように女関係で、ではなく、本と虫の標本で、である。

 もう何十年も、私はファーブル『昆虫記』の翻訳に携わっている。その間、南フランスのファーブルゆかりの地で実物の昆虫を採集し、資料を集めて来た。ファーブルと南仏に関するものなら、標本や文献だけでなく、机や椅子や農機具のように、ほとんど何でもいい、という調子なので、狭い家の中にだんだんと物が溜まって来た。

 本は、フランス文学と博物学関係のものが多い、とはいうものの、いろんな分野のものに手を出す。昆虫の標本も、全世界からほとんど何でも、採ったり、買ったりする。それでひと頃は、世界中の標本商にいつも借金が四百万円ばかりある、というような状態になった。払ってはまた買うことの繰り返しで、お金はじっと停滞しているわけではなく、借金の血管の中で古い血は出て行き、新しい血が入る。金という血液は循環しているのである。

 そのうちに二階建ての家の畳が、本と標本箱の重みでずしりと沈み込んでしまうようになった。そう言えば、中国の古い硯のコレクションも始めたのだが、硯はもちろん石であるから、それこそ純粋に重い。重さの塊である。

 それだけ物が狭い所に集積してあると、本でも、標本でも、探すものはなかなか見つからない。特に標本箱に中身の虫のタイトルが書いてなかったりすると、この箱に入っているはず、と何段にも積み上げてある箱をようやく下ろしてみて、あっ、違った、というような、トランプ遊びでいえば神経衰弱のようなことになってしまうのであった。

30トンの標本と
10トンの文献の行きつく先は?

 そのうちに友人の助けで、日本アンリ・ファーブル会というNPOが出来、住んでいた家をつぶして「ファーブル昆虫館 虫の詩人の館」という小さな施設を建てることが出来た。四階建てに地下一階。二階に標本収蔵庫、四階に書庫がある。地下にはファーブルの生家を再現。

 しかし、人間の住む所が無くなって、マンションに引っ越した。そして「しまった」と思った。

 元の家は、文京区千駄木の住宅街にあって、固定資産税が大変高い。これは自分が住んでいないから高いのだという。税金と水道光熱費で年間四百万。ボランティアの皆さんには交通費ぐらい払うけれど、他には一銭も払っていない。「ファーブル会」でいろいろ収益事業はするものの、まさに焼け石に水。じゃ、部屋を空けて人に貸せば、と思っても、それには改造費がいるし、NPOとは認められないかもしれない。活動が停止したら、NPOの資金は没収だそうだ。

 それでもこの十年に間に、我々の会で昆虫採集や標本の作り方を教えた子供の数は、延べ数千人になったであろう。社会的貢献を、少しは果たしたのではないかとうぬぼれている。

 学校も定年になり、今はただの物書き、翻訳者であるから、金はとても足りない。寄付も途絶え、資金切れで建物を没収されたら、30トンの標本と10トンの文献をどうしようかと思う。こうなると、退くもならず、進むもならず、まさに立ち往生である。遺言書には項羽の「垓下歌」でも引用し、「虞や虞や、若(なんじ)を奈何(いか)にせん」とでも書いておこうか。

おくもと だいさぶろう1
1944 年大阪生まれ。フランス文学者、作家。東京大学大学院修了。大阪芸術大学教授、埼玉大学名誉教授、NPO日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長。著書に『完訳ファーブル昆虫記』(集英社)、『ファーブル昆虫記ジュニア版』(集英社、産経児童出版文化賞受賞)、『楽しき熱帯』(集英社、サントリー学芸賞受賞)他多数。

映画は死なず

新着記事

  • 2024.12.19
    NHK紅白歌合戦の変遷をたどってみたら、東京宝塚劇...

    石橋正次「夜明けの停車場」

  • 2024.12.18
    坂本龍一が生前、東京都現代美術館のために遺した展覧...

    音と時間をテーマにした展覧会

  • 2024.12.18
    新しい年の幕開けに「おめでたい」をモチーフにした作...

    年明けに縁起物の美を堪能する

  • 2024.12.17
    第26回【キジュからの現場報告】喜寿を過ぎて─萩原...

    これからは地方の都市に住むかもしれない……

  • 2024.12.12
    ベルリン国際映画祭金熊賞受賞!桃農家を営むスペイン...

    スペインの桃農家のできごと

  • 2024.12.12
    三菱一号館美術館 再開館記念「不在」─トゥールズ=...

    応募〆切:12月20日(金)

  • 2024.12.12
    作曲家・筒美京平がオリコン週間1位を初めて獲得した...

    いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」

  • 2024.12.09
    リチャード・ギアも出演した黒澤明監督の『八月の狂詩...

    数々の「老女」役で存在感をみせた村瀬幸子

  • 2024.12.09
    泉屋博古館東京「企画展 花器のある風景」観賞券

    応募〆切:1月20日(月)

  • 2024.12.07
    中山美穂さんの大ヒット映画『love Letter...

    河井真也さんの追悼の言葉

特集 special feature 

わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の  「芸業」

特集 わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の 「芸業...

棟方志功の誤解 文=榎本了壱

VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いなる遺産

特集 VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いな...

「逝ける映画人を偲んで2021-2022」文=米谷紳之介

放浪の画家「山下 清の世界」を今。

特集 放浪の画家「山下 清の世界」を今。

「放浪の虫」の因って来たるところ 文=大竹昭子

「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

特集 「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

「いい顔」と「いい顔」が醸す小津映画の後味 文=米谷紳之介

人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

特集 人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

わが母とともに、祐三のパリへ  文=太田治子

ユーミン、半世紀の音楽旅

特集 ユーミン、半世紀の音楽旅

いつもユーミンが流れていた 文=有吉玉青

没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、展覧会「萩原朔太郎大全」の旅 

特集 没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、...

言葉の素顔とは?「萩原朔太郎大全」の試み。文=萩原朔美

喜劇の人 森繁久彌

特集 喜劇の人 森繁久彌

戦後昭和を元気にした<社長シリーズ>と<駅前シリーズ>

映画俳優 三船敏郎

特集 映画俳優 三船敏郎

戦後映画最大のスター〝世界のミフネ〟

「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の流行歌 

昭和歌謡 「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の...

第一弾 天地真理、安達明、久保浩、美樹克彦、あべ静江

故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・木下惠介のこと

特集 故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・...

「つつましく生きる庶民の情感」を映像にした49作品

仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監督の信念

特集 仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監...

「人間の條件」「怪談」「切腹」等全22作の根幹とは

挑戦し続ける劇団四季

特集 挑戦し続ける劇団四季

時代を先取りする日本エンタテインメント界のトップランナー

御存知! 東映時代劇

特集 御存知! 東映時代劇

みんなが拍手を送った勧善懲悪劇 

寅さんがいる風景

特集 寅さんがいる風景

やっぱり庶民のヒーローが懐かしい

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

特集 アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

60年以上にわたる創造の全貌

東京日本橋浜町 明治座

特集 東京日本橋浜町 明治座

江戸薫る 芝居小屋の風情を今に

「芸術座」という血統

特集 「芸術座」という血統

シアタークリエへ

「花椿」の贈り物

特集 「花椿」の贈り物

リッチにスマートに、そしてモダンに

俳優たちの聖地「帝国劇場」

特集 俳優たちの聖地「帝国劇場」

演劇史に残る数々の名作生んだ百年のロマン 文=山川静夫

秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

特集 秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

役柄と素顔のはざまで

秋山庄太郎ポートレートの美学

特集 秋山庄太郎ポートレートの美学

美しきをより美しく

久世光彦のテレビ

特集 久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、 テレビと遊んだ男

加山雄三80歳、未だ青春

特集 加山雄三80歳、未だ青春

4年前、初めて人生を激白した若大将

昭和は遠くなりにけり

特集 昭和は遠くなりにけり

北島寛の写真で蘇る団塊世代の子どもたち

西城秀樹 青春のアルバム

特集 西城秀樹 青春のアルバム

スタジアムが似合う男とともに過ごした時間

「舟木一夫」という青春

特集 「舟木一夫」という青春

「高校三年生」から 55年目の「大石内蔵助」へ

川喜多長政 &かしこ映画の青春

特集 川喜多長政 &かしこ映画の青春

国際的映画人のたたずまい

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

特集 ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

監督と女優の二人三脚の映画人生

中原淳一的なる「美」の深遠

特集 中原淳一的なる「美」の深遠

昭和の少女たちを憧れさせた中原淳一の世界

向田邦子の散歩道

特集 向田邦子の散歩道

「昭和の姉」とすごした風景

あの人この人の、生前整理archives

あの人この人の、生前整理archives
読者の声
Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
error: Content is protected !!