1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
ご承知のとおり舟木一夫の俳優人生は、デビュー曲にして出世作となった「高校三年生」(1963年6月、コロムビアから発売)が映画化されたことから始まる。自身の証言によれば、同年7月にはすでに映画化の話が持ち上がっており、9月には故郷の愛知県一宮市で行われたロケに参加した記憶もあるとのことだから、この歌の勢い(発売後一年でミリオンセラーを記録したとされる)と、舟木に対する期待度の高さがよく分かる。映画(富島健夫の小説を原作としている)の封切は11月。レコード発売から映画公開までのスピード感には驚ろくほかない。
実は舟木一夫という歌手は、この『髙校三年生』二部作(大映)だけは唯一、準主役としての出演だったが、当時のメジャー映画会社五社(松竹、東宝、大映、東映、日活)すべてで、主役もしくは準主役の立場で映画に出演したという、稀有な俳優でもある。こんな偉業を成した歌手は、他には江利チエミくらいしかいない(註1)。
『髙校三年生』では出身地・一宮の学校をロケ地に、高校生活を送った舟木。実は、成城学園で三度に亘り、(それも同じ年に)学生役を演じた経験をもっているのだ。今回は、この三作品における舟木一夫の〝学園〟生活を振り返ってみたい。
その第一作目は、東映で作られた『君たちがいて僕がいた』(64年5月23日封切)。もちろん自身の歌唱曲の映画化である。ここでの舟木は、神奈川県立城山高等学校に通う高校生=ラグビー選手。クレジット・タイトルの後、いきなり成城学園を象徴する講堂「母の館(ははのかん)」(『ハワイの若大将』他でもロケ地となる)と美術校舎「アトリエ」が目に飛び込んできて、学園ロケの事実が明白となる。
本作も『髙校三年生』と同様、富島健夫の小説(「明星」連載)を原作としており、舟木の学園ものと富島の青春小説の親和性=相性の良さが図らずも証明された格好だ。ヒロインとして登場するのは、東映期待のアイドルスター・本間千代子。彼女が歌う楽曲「愛しあうには早すぎて」も、重要な使われ方をしている。次第に映画が本間の視点で描かれるようになるのは、歌手として大忙しの舟木があまり現場に来られないことに対する苦肉の策だったのだろうか。
舞台が小田原であるにもかかわらず、学校のロケ地が何ゆえに成城なのかは不明。ましてや本作、東映大泉作品であるから、それまで成城学園ロケの実績は皆無だったはずだ。それでも、成城学園で撮られた場面の切り替えしショットが小田原の風景だったりするのは、『七人の侍』の村の場面と同様。こうしたところにも、本作の苦労のあとが見て取れる。