1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
日本映画黄金時代の昭和30年代にあって、東宝で巨匠と呼ばれたのは、何と言っても黒澤明と稲垣浩の両監督(註1)。どちらも三船敏郎を主役に据えた作品を中心に撮り続け、三船は両巨匠の映画に交互に出演していた時期もあったほどだ。俳優(子役)出身で、無声映画時代に監督に転向した稲垣と、トーキー映画専門のP.C.L.(のちの東宝)で監督になった黒澤の年の差は四歳ちょっと。しかし、そのキャリアの長さは段違いで、監督作も(70年の『待ち伏せ』が遺作となったにもかかわらず)稲垣の方が圧倒的に多い。
東宝における、もう一人の巨匠が成瀬巳喜男。稲垣浩と同年(1905年)生まれの成瀬も、サイレント映画(それも小道具係)からスタートした監督である。
小津安二郎のいた松竹から引き抜かれた成瀬は、新天地のP.C.L.で思う存分ト-キー作品を発表。自作『妻よ薔薇のやうに』(35年)などに出演した看板女優・千葉早智子と結婚するに至るが、その後、長い長いスランプに陥る。結局、千葉とは破局。独り悶々とする成瀬が、その名をもじって「ヤルセ・ナキオ」と称されたこともよく知られる。国策映画に馴染まぬ成瀬が撮った『はたらく一家』(39年)や『秀子の車掌さん』(41年)など、市井の人たちの生活を描いた作品は、今見ても佳作と感じられるし、戦後の『石中先生行状記』(50年)や『銀座化粧』(51年)などには復調の兆しが見て取れる。しかし、真の意味でスランプを抜け出したのは原節子を主演に撮った『めし』(51年)であった。
林芙美子の原作小説(未完の絶筆)の映画化となる本作。もともとは千葉泰樹が監督するはずだったが、急病により成瀬にお鉢が回り、これが十六年ぶりに「キネマ旬報」ベストテン入り(第二位)する結果に。その後も着実に信頼を回復した成瀬が放った最高傑作が、誰もが知る『浮雲』(55年:キネ旬第1位)である。
最近、4Kデジタルリマスター化された本作に接したが、高峰秀子と森雅之(旧制成城高等学校出身)、加えて岡田茉莉子のひたすら沈鬱で切ない名演技はもちろん、『めし』同様、中古智(美術)により東宝撮影所内オープンに設えられた伊香保温泉街のセットは圧巻。あの高低差のあるセットは、いったいオープン用地(現在ではマンションやホームセンターになっている)のどのあたりに作られたものなのか、是非知りたいものだ(註2)。