「4月からやる」と決めた。1日に編成局長を伴い、角川春樹氏に会いに行った。仁義を通すような感じだが、3月にはインせず、4月からの仕事で原田知世さんに出演してもらうことを伝えた。
4月2日。雪が少ない中で、メインは奥志賀の焼額山に陣取り、原田知世さんらキャストも参加して無事? クランクインした。
この時点で、この映画の出来に期待する人は殆どいなかっただろう。
しかも、ドタバタの中で、ユーミンの事務所も不安だらけだ。
実際、製作発表的なことを渋谷のシードホールを借りて行なったが、プレス(概要)に「松任谷由実」とは書けなかった。ユーミンがウリの映画に、ユーミンが無い! ただ事務所のマネージャーの気持ちになれば御尤もである。完成が危ぶまれていたのを察知したか……。本当はこんなことは、あってはいけないが、ユーミンの許諾が出たのは、撮影もすべて終わりオールラッシュ(ダビング前の音無し試写)の日。SE(効果音)などは無く、音と言えば殆どユーミンの歌だけだった。事務所のマネージャーの率直? な言葉が忘れられない。 「何かうちのユーミンの歌だけが目立ってますね……」まだ、ダビング前なので当たり前なのだが、最終形も、「最初からその予定です!」とは言えず、「これからダビングで、いろんな音が付いて……」などと、しどろもどろに話す中、待望の「OK」をいただいた。OKでなければ、この映画はどうなっていただろうと考えると今でもゾッとする。
一難去って、また一難、十難位を乗り越えてやっと完成に漕ぎつけた。撮影面、キャストとのトラブルなど数えきれないピンチはあったが慣れてしまったのか。馬場監督も初監督、僕も初プロデュースのようなものである。怖いもの知らずか。今だったら、最初から「これは無理!」と白旗を上げていたかもしれない。
元々、映画界の閑散期の11月公開。当たっても正月映画公開までの最長4週間興行。しかも東宝邦画系の2本立てで、メインは『永遠の1/2』(根岸吉太郎監督)。最初はこの映画に自分も参加していた。過去に参加した東宝系夏公開でヒットを宿命づけられている映画を考えると、そのプレッシャーはなかった。好評で、単体の映画として正月を越えて行った。ポスターをユーミンの『SURF&SNOW』のアルバムジャケットのようにイラストに拘ったため、東宝の上層部から反対されたり、公開直前まで、〝若いチーム〟が暴走しながらも、何とか11月21日を迎えた。
ここからのこの映画のことは、多くの方がご存じの通りである。
昨年、名古屋のミッドランドスクエアシネマで『私をスキーに連れてって』の35ミリ上映の興行(2週間程度)を行なうため、一人だけの舞台挨拶に招かれた。あの公開から35年だ。満員の観客とのトークで「映画館で観るのは25回目!」など、自分よりも遥かにこの映画を愛し続けてくれている人々に出会った。映画がヒットするのも嬉しいが、究極の喜びはこれかな……と。
「面白いスキー映画を創りたい!」。
映画のスタートは、だいたい「Passion=情熱」と「Will=志」だ。
そして『彼女が水着にきがえたら』(1989)、『波の数だけ抱きしめて』(1991)と、「SURF&SNOW」の如く、また荒波に揉まれに行くのである。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。