『私スキ』公開の半年後に入院生活を余儀なくされ、『彼女が水着にきがえたら』のシナリオ打ち合わせやキャスティングは病院で行なったとも言える。湘南の海を舞台の、トレンディ! な映画のキャストを病室のベッド上で考えざるを得なかった。ポスト三上博史はオーディションで選ぶことにした。さすがに一般公募はしなかったが、新人を中心に100人くらいの中から選ぶことになった。
これも出会いの一つだが、病室のビデオで織田裕二主演のドラマ「十九歳」(NHK/1988)を見た。ベッド上で見ていて、彼の精悍で、ストレートな目線がとても新鮮だった。これこそ青春スターだ! と思ったかは記憶は無いが、イケルとは感じたのだろう。
彼でキャスティングを決めた後に、オーディションにはその後、大活躍している多くの新人俳優たちが参加してくれていたことを知った。唐沢寿明さんの書いたミリオンセラー『ふたり』(1996)では、『彼女が水着にきがえたら』等のオーディションに落ちたことをバネに、その後スター俳優の道に邁進する決意の旨が書かれていた。
アメリカなどに比べると日本の映画やドラマはオーディションが極めて少ないが、今後はますます必要になって来るであろう。限られた中ばかりでキャスティングをやっていては、新しい作品が登場する機会も逸することになる可能性がある。
そんな流れで『彼女が水着にきがえたら』は、原田知世&織田裕二の主演コンビになった。 問題は音楽だった。
馬場監督はユーミンフリーク。しかも、元々のアイデアにユーミンの「SURF&SNOW」(1980)のアルバムのコンセプトがある。例えれば「逗子マリーナ&苗場プリンス」的な。
僕自身もそれは十分わかっていたが、サザンオールスターズ好きとしては、一度は桑田佳祐さんに主題歌を作ってほしい希望もあった。事前の感触では事務所(アミューズ:不思議な縁でそこから10数年後自分もお世話になることに)の会長も乗ってくれていた。ユーミンVSサザン、では無いが、どちらかの選択しかない。
ここで登場するのがホイチョイ・プロダクションのマーケティング戦略だ(彼らはフジテレビで「マーケティング天国」(フジテレビ/1988-1990)という番組まで始めた)。ユーミンとサザンには、申し訳ない限りだが、渋谷辺りの街の若者が「スキー」のあとの「海」の映画の音楽に誰を期待するかアンケート調査……。詳細は書けないが、やはり多くのミュージシャンの中で圧倒的に、この2人に期待が集まった。
映画はデータ通りにヒットするわけではない。ただ、ホイチョイスピリッツでは、〝求められない映画〟を作りたくは無い。自分たちが創りたいものを作り、それを〝求める人〟がいるということは外せなかったのだと思う。
映画の新曲(主題歌)を依頼するのは実は悩ましい。『私をスキーに連れてって』にユーミンの書き下ろしの新曲はない。「恋人がサンタクロース」が流れると『私スキ』を思い起こす人が多いので、主題歌と思っている人も少なくないが、正確には「挿入歌」だ。
『彼女が水着にきがえたら』は桑田佳祐さんに新曲を2曲お願いすることなった。結果、出来上がったのは1曲で「さよならベイビー」となっていた。今では名曲だと思えるし、当時もサザンオールスターズとしては初のオリコン1位にもなった。
それでも映画が完成しているわけではなく、台本をベースにイメージを具現化していく作業は、監督、ミュージシャン、僕も含めて頭の中の映像は一つでは無いだろう。
映画が〝綜合芸術〟と呼ばれたりするのも、多くの人の違った感性が1本の映画に重なり合わさることの結果、ということだ。
試写に桑田夫妻がいらして、馬場監督らともクリエイティブな会話がされた翌年、映画『稲村ジェーン』(1990)で桑田さんが初監督をされた。主題歌「真夏の果実」は見事に映画とハマって傑作だと思った。
『彼女が水着にきがえたら』は興行的には『私スキ』よりもヒットした。織田裕二はその後ドラマ「東京ラブストーリー」(フジテレビ/1991)、映画『波の数だけ抱きしめて』(1991)と大スターへの階段を駆け上がっていく。