最も悩んだのは企画決定とタイトルだった。「スキー」「海」と来て3作目は「車」とか色んなアイテムを考えたが長編の映画にはならなかった。「ヤクルトが優勝した日」といったような企画も登場して、なかなか纏まらなかった。トレンディと呼ばれた時代も、企画真っ只中の1990年にはバブルも弾け、時代を切り取ることの難しさを感じていた。
結局、時流に乗った〝トレンディ〟は諦め、過去話になっていく。原点はJ-WAVEの放送が始まった(1988年10月)ことにあったかもしれない。一度聴いたら忘れられない「81.3~J~wave」を元に、映画では「76.3~Kiwi Fm」となりオリジナルのジングルも作った。
とにかく公開日は前年に8月と決定しているので、遅くとも7月には完成していなくてはならない。正直、〝トレンディ映画〟として成功してきたので、過去の〝青春想い出映画〟への不安はあったが、締め切りも重要である。内容がドラマ的であるほど、監督の手腕も問われる。3部作と謳いながら『私スキ』の主演陣も居ない。
タイトルも難しかった。ちょっと、ややこしいが『彼女が水着にきがえたら』の時も多くの案が出て、数十の中から数個に絞り、街でアンケートを取るのである。「潜らんかな」とか、幾つかのタイトル案のアンケート結果の1位は「波の数だけ抱きしめて」だった。ただ、『私をスキーに連れてって』の次のタイトルとしては相応しくないのではという若手の意見が多かった。「波の数」は「抱きしめられないだろう」とか……感覚的なものだが、3位ぐらいに「彼女が水着にきがえたら」があった。これは具体的に、タイトルから映像も想像出来る。根拠がありそうで無さそうな意見の中で『彼女が水着にきがえたら』に決定した。
当然3作目もタイトル候補を出し、街でアンケートを取った。不思議なことに2作目で1位だった「涙の数だけ抱きしめて」が再びトップになった。議論はあったが、あれから2年間1位ということは、観客の支持が高いことの証明で、このタイトルが、求められたベストである! という結論になった。ホイチョイのマーケティングと、当時視聴率1位だったフジテレビらしいジャッジである。オリジナル企画の場合、タイトルは自由に考えて決めることが出来る。ただ、絶対正解! というタイトルもないと言うことだろうと思う。
撮影前に、色々ありながら「湘南」を舞台にした映画は、千葉の外房の千倉海岸などをメインにクランクインした。
音楽(歌)のメインはユーミンに戻ったが、新曲を作ってもらうことはしなかった。そのかわり、ちょっと過去の懐かしさを感じるTOTO の「ロザーナ」やJ.D.サウザー、カラパナなど、3作目ならではのビーチコースト風のテイストを取り入れた。これは成功したのではと思う。 実は洋楽を取り入れるのは、契約も大変でスタッフは苦労した。洋楽だけのサントラ盤もSONY から出てヒットした。
『波の数だけ抱きしめて』は3部作で最もヒットした。意外かも知れないが『私スキ』の2倍だ。興行的に最も危惧した企画が、一番当たった。
その後、当然ではあるが、会社からは『私をスキーに連れてって2』をやってくれと強いリクエストもあったが、この3部作はこれで終わりにした。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。