それから入退院が3年位続くが、医者、看護士、患者とともに「楽しむ!」ことに決めた。抗がん剤は血を吐きながらなので苦しいのだが、それを乗り切った後の楽しい時間を思い浮かべながら「どれか当たってくれ!」と。
お見舞いにも多くの人が訪れてくれた。整形外科なので、骨折かと思って最初は笑顔で来てくれた。「ガン患者」とわかってからは「どう、元気?」という人はいなくなった。お通夜に来るような雰囲気の人もいて、此方があまりに元気?なので拍子抜けした人もいた。
忘れられないのは、森田芳光監督がチンチロリンセット(サイコロ付)を持参してくれた日だ。「これで皆で盛り上がりな!」と、病院の夜のデイルームがまさかの賭場!?に。初代ファミコンの時代だったので、病室にお見舞いのゲームも散乱した。
本当に面白かったのは、職業、立場、年齢に関係なく、共通に「骨の病気」という環境だった。新潟の旅館のボンボン、金欠のアニメーターといった入院患者など、これまで話したことがない人との新鮮な出会いだった。担当してくれた研修医の女医。点滴差しが上手く出来ず、血だらけの僕の腕。それを予期していたように見ていた看護士の顔。
その時から毎日、日記のように出来事を書いた。723号室だったので「なにさ!(723)の部屋(仮題)」と名付けて。
『木村家の人びと』を一緒に創った滝田洋二郎監督もお見舞いに来てくれた。おそらく、その時に日記の話もしたのだろう。腹を抱えて笑ってくれ、その時に映像化を考えたのかもしれない。
入院前に、伊丹十三氏に初めて、監督として番組に出演してもらったのが、僕が映画のコーナーを担当していた金曜深夜の情報生番組「面白予約SHOW」だった。土曜日初日の全ての映画の情報を映像付で毎週紹介した。言わば、「ぴあ」のテレビ版である。
出演当日、緊張気味の伊丹十三監督が来られ、映画『お葬式』(1984)は宮本信子さんの父親(監督の義父)の実際の葬式から着想を得て考えたと。
病院のベッドの上でふと、その事を思い出した。
正直、テレビ局員の入院体験の映画化は無いだろうと考えていたが、周りがあまりにも面白がってくれるので、最初の退院の頃には、本気になっていた。滝田洋二郎監督の笑いのセンスがピッタリ合う! とも。勿論、『木村家の人びと』の一色伸幸脚本で。
自分で言うのが、気恥ずかしい面もあるが、入院中、書きながら、主人公の患者(自分)役は、友人でもある真田広之氏を想定した。それと、最初に会った時から、この人がヒロインと感じた担当の女医(感謝!)、雰囲気がそっくりだった薬師丸ひろ子さんにお願いした。大地康雄さん演じる役をはじめとして、その他も、多くは女子医大病院の患者仲間がモデルになっている。
フジテレビの上司も前のめりで、驚くべきスピードの中で映画化は決定した。製作費2億5千万円で、全額出資。退院から1年以内には『病院へ行こう』(1990/4月公開)が東映邦画系で公開され興行収入15億円のヒットになった。周りの人からは「転んでもタダでは起きない男」とも言われた。
東京女子医科大病院の整形外科物語が映画になる頃、本物の「がんセンター」に入院したくなった。整形外科にいると、僕以外は、交通事故等で入院して最初が最悪の状態が多い。日々、良くなってやがて元気に退院。一方、僕の病気は整形外科では異質である。
志願入院ではないが、女子医大で僕の執刀医でもあった先生がいる千葉県立がんセンターに入院することにした。その頃はまだ、社会的に「がん告知問題」もあり、そこから脱したい気持ちもあった。