今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
2010年に八十六歳で没した高峰秀子。「オールタイムベスト女優」の筆頭に数えられる彼女が、五十年に亘る女優業を引退したのは1979年、五十五歳のときだった。生涯で出演した映画が169本(キネ旬ムックによる)に及ぶのは、なんといっても五歳のときから子役として働いていたことが大きい。
本連載に‶イの一番の東宝女優〟として登場するのは、1937年、十三歳でP.C.L.(写真化学研究所~ピー・シー・エル映画製作所)に移籍し、少女時代を東宝撮影所で過ごしたことによる。2012年には同所で「偲ぶ会」が開かれ、筆者もスタジオの一隅に設けられた献花台にお参りさせていただいたが、高峰が東宝の専属女優であったのは、わずか十年に過ぎない。
1947年、東宝争議により派生した新東宝への移籍後、フリーとなった高峰は、古巣の松竹や大映作品に出演を続け、ここに記すまでもない名作、傑作にその名を刻む。それでも、筆者にとっての高峰は、その後も東宝女優のままであり続ける。これは、成瀬巳喜男や稲垣浩などの作品で三船敏郎、小林桂樹、宝田明、加山雄三といった東宝男優と繰り広げた、ウェットかつナーバスな演技が、子供心にも深く刻み込まれたからに他ならない。
高峰が松竹からP.C.L.へ移る際の条件には、給料が約二倍(100円)になることに加え、撮影所近くの成城に一軒家を用意するという「おまけ」(高峰曰く)が付いていた。養母との深い確執は、自著『わたしの渡世日記』で繰り返し述べられているが、その養母が松竹への恨み(借金を断られた)を晴らす機会ともなった会社移籍にあたっては、「女学校へ通わせてくれるなら」が本人のたっての希望だったそうだ。それだけ、子役としての不自由で辛い生活に別れを告げたかったのであろう。
自著によれば、この家は撮影所から歩いて10分ほど。十坪の庭付きで六畳二間に八畳、台所と風呂付きの新築借家で、全く同じ形の隣家には成瀬巳喜男監督・千葉早智子夫妻(1937年結婚)が居住していたという。このとき隣同士で過ごしたことが、のちの蜜月関係に繋がったかどうかは分からないが、新興会社のP.C.L.は他にも入江たか子、原節子、林長二郎(のちの長谷川一夫)、高田稔、山田五十鈴などのスタアを他社から引き抜き、その多くを撮影所近くに住まわせている(※1)。
早速、岸井明により付けられた「デコ」を愛称にして、高峰は『良人の貞操』(37)を皮切りに、P.C.L.(同年9月から東宝映画)作品への出演を開始。十三歳という年齢からして、明るいお嬢さん役が多いのは当然としても、翌38年には早くも運命的な作品と出会う。ブリキ屋の娘だった豊田正子の‶生活記録〟の映画化『綴方教室』である(※2)。
この作品でジャーナリズムの洗礼(豊田との対照について面白可笑しく書かれた)を受け、世の中を斜めに見る力を身につけたデコちゃん。のちのエッセイストとしての活動は、子役時代にまともに小学校にも通えなかった反動、それとも豊田正子への対抗心からであろうか?
ヤマカジ先生という演出家をいっぺんに「好きになった」ことで、私生活では〈親代わり〉として、仕事面でも師弟関係を築き、計八本もの山本嘉次郎作品に出演した高峰秀子。東宝時代の十年で28人の監督と仕事をした中、多いのが『昨日消えた男』や『ハナ子さん』のマキノ正博の七本だが、未完成作『アメリカようそろ』を含めれば、山本作品の方が一本多い勘定になる。 その山本監督作品『馬』(41)も、デコちゃんにとっては運命的な作品であった