そんな三船は、自らのプロダクションのスタジオを建設する際も成城という土地にこだわる。同じ成城に住み、同じく独立プロを起こしていた石原裕次郎がヨットを保管していた成城の土地を譲り受け、これを三船プロの敷地としたのだ。
やがて道路の反対側、調布市入間町の土地も買い増した三船は、時代劇が撮れるオープンセットを建設。事務所の玄関に外国映画『グラン・プリ』(67年)出演で得た莫大なギャラをほぼつぎ込んで購入したミッチェル・カメラ(ほとんど撮影には使わなかった、言わば無駄な買い物)を飾っていたのは、かつて目指したカメラマンの夢を忘れていなかった証しと見てよいだろう(註6)。
ご家族に伺えば、三船が成城で愛したお店は「栄華飯店」という中華料理店(註7)だったという。これも、青島(チンタオ)生まれの大連育ちという経歴からきているかと思えば、心から納得である。
(註1)撮影はすべて順撮り、加藤の舞台出演が終わるのを待って深夜に撮影を始めるなど、やたら時間とコストをかける小林正樹監督に社長の三船は不満爆発。それでも三船は、毎夜加藤を車で自宅まで送り届けたという(加藤剛談)。
(註2)本作の撮影遅延による製作費超過を重く見た東宝は、黒澤にその製作費を負担させることで、コスト削減を図ろうと、自身のプロダクションを持つよう要請する。
(註3)仙川は多摩川の支流のひとつ。このときは、小田急線と交わる辺りの架橋(成城橋)に成城大の馬場から流れ出たドラム缶や木材が詰まり、アッという間に水が溢れたと聞く(同大馬術部OB談)。 (註4)この低地はかつて成城学校(新宿)の中国留学生部の運動場で、P.C.L.(東宝の前身)の野球チームの練習場所にもなっていた。
(註5)森繁の次男・建氏によれば、二人連れ立っての鴨撃ちの際は、目的地の霞ケ浦に着くまで車中でウイスキーを飲みっぱなし。船に乗ってからも、日本酒を傾けつつ発砲していたという。
(註6)三船が事務所に黒澤明のための部屋を用意したのは、『赤ひげ』(65年)を最後に決別したとされる、黒澤への忠誠心を失っていなかった証しであろう。
(註7)かつてあった成城屈指の人気中華料理店。作家の大岡昇平(旧制成城高等学校出身)も、この店の鶏ソバを愛した。
たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝映画に親しむ。黒澤映画、クレージー映画には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に近い成城大を選択、卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画文筆を中心に活動。『七人の侍』など、日本映画のテーマ曲を新録したCD『風姿〜忘れがたき男たち』(ラッツパック・レコード:5月発売)では作品・楽曲紹介を担当。近著として、『今だから! 植木等』(今夏発刊予定)を準備中。