薬師丸さんと初めて話したのは、彼女が主演の『野蛮人のように』(1985/川島透監督/東映製作)のときだったか。『チ・ン・ピ・ラ』(1984)、『CHECKERS IN TANTANたぬき』(1985)をご一緒した川島透監督への応援? で、フジテレビで特番を作ることになりぼくが担当になった。ただ、この時、彼女は大スター映画俳優であり、こちらは番組のプロデューサーで、何か話した記憶は全くない。
映画プロデューサーの伊地智啓さんとはこの頃出会い、その後『ジュリエットゲーム』(1989/鴻上尚史初監督)などでご一緒した敬愛する大先輩だ。『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』『探偵物語』『野蛮人のように』など薬師丸主演映画のほとんどは伊地智プロデューサーが制作してきた(角川映画の製作指揮は角川春樹さん)。
ある日、伊地智プロデューサーから、キャピタル東急ホテルの「ORIGAMI」で薬師丸ひろ子に会ってくれないか、と。
薬師丸ひろ子が角川春樹事務所を辞めたのは1985年3月。『野蛮人のように』が独立後最初の映画だ。その後、何本かの映画に主演するが10代時のアイドル人気は無くなっていき、「女優」として勝負しないと、という時期だった。しかも、基本はテレビドラマには出演しない。舞台にも出ないので映画だけだ。
『レディ!レディREADY!LADY』(1989)の撮影前に、「ORIGAMI」で3人で会った。薬師丸さんときちんと話すのは初めてだろうか。伊地智プロデューサーの最初の一言が忘れられない。「河井さん、彼女が角川事務所を離れた後も自分としては相応しい映画を企画してきたんだが、ヒット作を出せずちょっと限界を感じている」云々とストレートな御発言。そして「彼女に相応しいヒット映画をやってもらえないか……」と。本人の前で話す伊地智さんは「愛」の人だ。
ぼくは『私をスキーに連れてって』(1987)が話題になり、「シネスイッチ銀座」(1987)を立ち上げ、『木村家の人びと』(1988)、『ジュリエットゲーム』(1989)がヒットしていた頃である。
『木村家の人びと』で一緒だった桃井かおりさんが共演でもあり、撮影中の『レディ!レディREADY!LADY』の日活撮影所を訪ねた。桃井さんには連絡しないで行ったので「河井さん! 来てくれたの!」と言われたが、現場なので薬師丸さんとは多くは話せなかった(桃井さんとは色々話せたが……)。この映画は元々、小さい規模の公開映画でもあり厳しい興行成績になり、アイドル時代からの、薬師丸ひろ子=ヒット映画の、ひとまずの終焉となったと言える。
ぼくは1988年の6月に悪性腫瘍で東京女子医科大学付属病院に入院。それから5年間は抗がん剤などを投与しながらの入退院の生活だったが、「ORIGAMI」で薬師丸さんに会ったのはこの間である。女子医科大病院であることが『病院へ行こう』(1990/滝田洋二郎監督)を生んだとも言える。最初に担当の研修医の顔を見た時に「薬師丸ひろ子に似てる!?」と。即座にストーリーをベッド上で書いた。

彼女は家族中心で事務所を運営していたので、内容の話はほとんど二人でした。『レディ!レディREADY!LADY』の翌年に『病院へ行こう』に主演してもらい全国公開し、ヒットした。この映画のために入院したような気にもなった。
その後も毎週のように映画の企画の話をして、立て続けに4本の映画に出演してもらった。『タスマニア物語』(1990/降旗康男監督)、『きらきらひかる』(1992/松岡錠司監督)、『ナースコール』(1993/長崎俊一監督)。すべて映画監督との仕事になった。
その後、テレビドラマや、舞台、歌手でも大活躍だが、僕にとっては、やはり「映画女優」である。












