最初の企画としては『連合赤軍』だった。これはぼくが会う前から『太陽を盗んだ男』の次作として企画開発中だった。脚本家としても秀逸で『青春の蹉跌』(1974/神代辰巳監督)、テレビドラマでも「悪魔のようなあいつ」(主演:沢田研二/演出:久世光彦/TBS)など傑作の脚本も書いている。脚本家として優秀だったことがその後の映画製作に影響をもたらす一因にもなる。
『連合赤軍』だけでも何十冊の脚本がある。ただ、どうしても6時間以内の尺(長さ)にならなかった。赤軍派らの行動を、彼らの幼少期から描く。実話ベースとは言え、フィクションで、ある意味で「青春映画」だ。監督自体は左翼でもなく、どちらかと言えばノンポリに近い。普通に生まれた子どもが、どこかで左翼になり、あさま山荘事件のリンチにまで至ってしまう。行動よりも内面にせまった素晴らしいストーリーではあった。しかし、ノンポリに、実際の彼らの気持ちに迫るのは難しいことでもある。何度直しても決定稿に届かない。
この企画に関しては30年以上経った今も、終わりを迎えていない。その執念には頭が下がる思いである。20数年前になるだろうか、実際の連合赤軍の行動経路と同じように、数人のスタッフを引き連れて群馬山中へ、最後に軽井沢のあさま山荘まで行き、「この角度から撮影だな……」と言ったあとに、「河井!このあさま山荘(当時は空家)を買っておかなくては……」と軽井沢の不動産屋に値段を聞きにいったこともあった。

台本印刷、主要(予定)キャストと監督の対面での打ち合わせなど、2時間台の脚本になっていたら何回か具現化のチャンスはあった。現在だったら配信ドラマの可能性もあるのだが……。
2つの出来事があり、映画化が厳しくなった。1つは元、同じディレクターズ・カンパニーのメンバーの高橋伴明監督が『光の雨』(2001)を撮りたい! とゴジさん(長谷川監督の渾名)に話に来た時だ。立松和平さんの原作で、連合赤軍事件を描いた小説だが、映画は劇中劇の体裁をとり、「原作」としての表示はない。ただ「連合赤軍側」の映画としてはこれは最初である。長谷川監督はその20年前から「連赤」に拘りやってきたので、あるショックは隠せなかった。ただ、ゴジさんの連赤はオリジナルなので他の人が連合赤軍映画を創るのは自由である。
ディレクターズ・カンパニー(通称ディレカン)は1982年に設立した、長谷川監督を代表に映像作家9人が起こした映画製作集団。石井聰互、井筒和幸、池田敏春、大森一樹、黒沢清、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎ら、30代前半中心の俊英たちである。博報堂を辞めた宮坂進さんが社長になり、映画、テレビ、PVまでビジネスマインドを持ちながら基盤のある映画製作を目指したのだった。
結果、10年後の1992年に倒産してしまう。プロデューサー側の問題も問われた。それでも長谷川監督以外の監督は作品を製作し、『逆噴射家族』(石井聰互/1984)、『台風クラブ』(相米慎二/1985)、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(黒沢清監督/1985)等、面白い映画も数多く誕生した。
そのディレカンのメンバーの高橋伴明監督が『光の雨』を製作した後もゴジさんの意欲は継続していた。規模感で言えば、こちらは製作費も10億円サイズであり、別の映画だ、という認識があった。
もう1本は若松孝二監督の『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(2007)だ。製作の2年前くらいか、若松監督とゴジさんの話し合いがあった。若松さんは「ゴジが連赤をやるから俺はその後でも、と待ってたけどもう時間切れだ。早くやんないと俺は死んじまう。これやんないで死ねないんだ……」(2012年に76歳で死去)。反体制のスタンスの中で『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』(1971)等を製作してきた若松監督にとっては、ある意味で集大成的な映画だった。若松監督から完成披露試写会に招待され、ゴジさんと一緒に新宿に行った。終わったあと、若松監督がいて挨拶の会話はあったが、帰り道、ゴジさんの言葉は少なかった。
それでも、数年前から、再び『連合赤軍』に取り組んでいる。ただ来年の1月には80歳。しかも体調も良くない状態が続く。雪山撮影はハードだ。日本の観客の嗜好や、50年以上前の事件に若者たちが反応してくれるだろうか。それより、この事件を知る人はどんどん減ってきている。それでもやる意義はずっと感じているが、製作費、長さなど結局、解消できないまま今に至っている。自分の不徳の致すところ、力不足が要因でもある。













