『リング』(1998)を製作した時に、3部作の最後の小説は『ループ』(1998年発売)だった。『リング』『らせん』がヒットした時にゴジさんにこの小説の映画化を打診した。珍しく「これはやりようがある!」と黒沢清監督(『太陽を盗んだ男』では制作進行)らゴジ組に参加してもらい、プロットなども作った。ゴジさんが書いたシナリオはほぼ完成したのだが原作の要素があまりに変わってしまい、鈴木光司さんの『ループ』ではなくなっていた。三部作の映画のラストを目指したが、ここでストップしてしまった。翌年『マトリックス』がハリウッドで製作されるが『ループ』の仮想世界のストーリーとは近いものがあった。『リング』『らせん』とは違い、『ループ』の世界観は大きく、規模も数倍だった。これも主役のキャスト陣とゴジさんが会うところまで行っていた。
過去には『吉里吉里人』(原作:井上ひさし)など10前後の企画をシナリオにし、印刷台本にもした。企画、シノプシスだけなら20本以上の開発をしただろうか。
学生時代に観た傑作映画2本。ぼくはその後、70本ぐらいの映画製作をやってきたが、その中に長谷川和彦監督作品が無いのは残念、というかこれもそういう巡り合わせなのだろうか。
何度かチャンスがあった。ただ、たった2本、それでもその2本は、ずば抜けて面白く評価もされた。そのプレッシャーがあって3本目が誕生しなかったわけではないが、自身の満足、あるいは自分の中の100点の映画の自信が持てないと最後の一歩を踏み込めない時があった。それでもすでに「伝説の監督」になっているのだが。
根岸吉太郎監督とたまにお会いすると「なんとかゴジたのむぞ!」とよく言われた。
ぼくの盟友の編集マン、冨田功氏が肺がんで国立がんセンターに入院した時、度々お見舞いに行った。たまたま、相米慎二監督(当時、入院中)と冨田氏の病室で遭遇し、ドアを開けて出ていく時、振り向きざまに「ゴジのことたのむぞ……」と。これが相米監督と交わした最後の言葉になり、それからほどなくしてに鬼籍に入られてしまった。53歳だった。時々会った時に、「ゴジがやる時は俺が助監督でも何でもやるから」とも。冨田氏も翌年2002年10月に亡くなってしまった。ゴジさん映画の編集マンをやってもらうはずだった。45歳だった。
生きているうちになんとか……という思いだけはある。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。












