ぼくの関わった映画で元祖「ロケ地巡礼」に当たるのは『私をスキーに連れてって』(1987/馬場康夫監督)だろうか。1~2月の撮影を予定していたのだが2月中旬になっても雪が降らない。元々、企画のストーリーとしてはユーミンが今でもコンサートをやっている苗場だ。志賀高原、万座など色々候補はあったはずだが、どこも雪不足、というか無い。結局、クランインできるか3月まですったもんだした挙句、辛うじて奥志賀の焼額山のプリンスホテルをベースに4月に入り、俳優も参加して、正式クランクイン。プリンスホテル、プリンスグループには本当にお世話になったが、その後のスキーブームで焼額山は空前のスキー客が訪れることになった。というより、全国のスキー場が原田知世さんの来ていた白いスキーウエア族で大いに盛り上がった。

数年前に、(伊豆)大島に行った時の記憶は今でも新鮮だ。昔『七人のおたく』(1992/山田大樹監督)のロケで大島に10数人の俳優と撮影に行った。30年以上前の話で、ぼくはどこで撮影をしたか、忘れてしまっていた。たまたま、道路沿いで車を止めていた時の事。
ぼくが『七人のおたく』はどこで撮影したんだろうな……と呟いたのか……知らないオジサンが「ちょっとついて来な!」という感じで「オレは知ってるぜ!」の形相。そこからが凄い。「ちょっと向こうの方見て! あの小屋みたいなところがあるでしょ。中尾彬さんが、こうやって座っていて、途中のあそこ! から山口智子さんが現れる!」この人は、もしかしたらスタッフだったのかと思わせてくれるような詳しい解説付き。プロデューサーだった自分の記憶は全くないのに比べて、なんと鮮やかに助監督のような説明に感服!「だって、大島の人間はみんな知ってるよ! ウッチャンナンチャンやら江口洋介やら生で見られるめったにない機会だったからね」
映画のロケのもう一つの役割みたいなもの。ロケ場所の人たちの想い出としてしっかり覚えていてもらえる。そして「地方創生」の言葉が飛び交って久しいが、映画を観てくれて、話題にしてもらって、撮影場所を訪れる人が増えるのはとても素敵なことだ。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。













