本作撮影地の詳細については、拙著『七人の侍 ロケ地の謎を探る』をお読みいただきたいが、東京、神奈川、静岡を跨ぎ、1年余をかけて製作されたこの時代劇巨編の主たる撮影現場は、成城の南端に接する大蔵の農地であった。北は福島、西は白川郷まで一ヶ所で撮影できるロケ地を探したものの、適当な場所は見当たらず、結局、黒澤は静岡県函南町の下丹那、伊豆の堀切、御殿場の二の岡、そして、ここ大蔵の四ヶ所で村の攻防戦を撮ることとなる――。
特筆すべきは、侍役で出演した俳優のうち四人までもが成城の住人であったこと。菊千代の三船敏郎をはじめ、志村喬(勘兵衛)、加東大介(七郎次)、千秋実(平八)はみな、成城の近所に住まっていたのだ(黒澤はこのとき、狛江「泉龍寺」地所内に居住)。美術助手だった村木与四郎、記録の野上照代、B班監督の小田基義も成城住まいで、利吉を演じた土屋嘉男は当時、狛江の黒澤邸に居候中だったが、最晩年は成城の住人となった。
加えて、黒澤が過労により撮影途中で入院したのが成城学園正門前の木下病院(註1)であったこと、クランクイン当日に撮った豪農の家とクランクアップ時の野武士の山塞がともに東宝撮影所北端のオープンセット用地(中島春雄はここを〝北海道オープン〟と呼ぶ)に設けられ、山塞の火を消したのが成城消防署の消防士たちであったこと、さらには、村を襲う野武士の馬の調達場所のひとつが成城大学馬術部であったこと、これに美術の松山崇とチーフ助監督の堀川弘通が旧制成城高等学校出身であった事実も含めれば、本作を〝成城メイド〟の映画と呼ぶことに異論のある方は一人もおられまい。音楽を担当した早坂文雄(註2)もまた、成城の隣町(砧)の住人であった。
ちなみに、『ゴジラ』の監督、本多猪四郎も成城住まい。ゴジラの着ぐるみが造形されたのはP.C.L.が最初に設けた研究所施設(成城消防署前にあった)内で、ゴジラは毎日ここからリヤカーで撮影所に運ばれていったという。
次回の登場人物は、〝世界のミフネ〟こと三船敏郎。成城が生んだ、この偉大なる俳優の豪快かつ繊細なエピソードをどうぞお楽しみに。
(註1)犬童一心監督は成城の木下病院生まれ。本人が語るには、隣の病室に入院中の母親を見舞った市川崑監督から抱いてもらった経験があるという。
(註2)早坂の死後、遺児たちが経営していたアパートに入居したのが、成城大学の学生だった大林宣彦監督である。
たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝映画に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に近い成城大を選択、卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、共著に『山の手「成城」の社会史』(青弓社)がある。