1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
成城に住み始めた三船敏郎が頼りにしたのは、『銀嶺の果て』(47年)や『酔いどれ天使』(48年)で共演した志村喬であった。
「成城町777番」の家を持つ前、1950年1月5日に予定される結婚式が待ちきれない三船は、志村の世話により、満鉄病院の院長だったU氏の洋館(斜向かいの746番地)の一室を間借りし、新婚生活を始める。このとき部屋に風呂はなく、北に歩いてすぐの志村邸から、夫人の政子さんが「三船ちゃん、お風呂が沸いたわよ」と呼びに来てくれるほどの親密な付き合いをしていた両家。政子夫人は、のちに三船が夫人と離婚裁判を繰り広げたときも、死の淵にあったときも、常に三船の傍らにいて優しく見守ってくれた人である。
長男の史郎さんは、三船が「志村のおじちゃん、おばちゃん」と呼ぶので、夫妻を本当の親戚だと思っていたという。
すぐに「777番」の小さめの一軒家を自邸とした三船は、やがてU氏の豪邸と交換して、生涯、成城に住み続けることとなる。
今ではすっかり有名となった「黒澤のバカヤロー」事件(酔った三船が車で黒澤邸の周りを回り、「出てこい、バカヤロー!」と怒鳴る)だが、三船プロの田中寿一氏(当時の腹心)は、「バカヤロー」呼ばわりは稲垣浩のほうが先だった、と語る。巨匠の稲垣はしばしば台詞を変更することで知られ、台本を丸暗記して撮影に臨む三船には、酷い仕打ちと映ったのであろう。
稲垣邸襲撃は、三船が和製シラノ・ド・ベルジュラックに扮した『或る剣豪の生涯』(59年)の撮影時にも発生。シラノ役なのだから当然なのだが、自分の台詞が異常に多いのを不満に思った三船は、歩いても数分のところにある稲垣邸(成城七丁目)の周りを車で十回ほど回り、エンジンをふかしては去っていったという。これは夜中にトイレに立った稲垣自身が目撃したものなので、真実の出来事に違いない。
「黒澤のバカヤロー」発言は、三船が珍しく現場に5分ほど遅刻し、苦言を呈されたときが起源だったとされる。しかし、心の底からそう叫びたくなったのは、『蜘蛛巣城』(57年)のラストシーン撮影の折のこと。CGなど夢のまた夢であったこの時代、6メートルの至近距離から本当に矢の雨を浴びせられる場面(註1)では、とてつもない恐怖を覚えたのであろう、三船は「毎晩B‐29が自分めがけて突っ込んでくる夢」を見る。なにせ矢を射っていたのは、指揮を執る専門家数名の他は、ほとんどが成城大学弓道部の学生たち(註2)。これでは、酒で恐怖を紛らせる三船が夜な夜な狛江の黒澤邸を襲うことになったのも無理はない。
撮影中の宿で三船の怒声を聞いた俳優は司葉子、夏木陽介、加山雄三と枚挙に暇がなく、新築祝い中の俳優・田崎潤邸(成城二丁目)前で猟銃を数発ぶっ放したという驚きの逸話(俳優・土屋嘉男による)もあるほど。最近では、『太平洋の地獄』(68年)のパラオ・ロケの際、宿となった船室の窓から夜な夜なライフル銃を撃っていたとの証言(録音技師・瀬川徹夫氏談)も得ている。千歳船橋に住む森繁久彌とは、誘い合ってよく霞ヶ浦に鴨撃ちに出かけていた(子息・森繫建氏談)とのことだから、三船にとって銃は手軽なストレス発散の手段だったのかもしれない。
そんな三船だが、成城の住民には優しい一面を見せている。
撮影所近くの明正小学校に通う小学生が、走り去るMG-TDから落下したナンバープレートを撮影所の守衛に届けると、三船はすぐに大量の文房具をプレゼント。
また、大雪の朝、三船がジープで史郎さんが乗る橇を引いているのを見た近所の子供たちが雪玉を投げつける(註3)と、怒るどころか「お前も投げ返したらどうだ!?」と逆に史郎さんを発奮させたりした逸話からは、三船の子供たちへの優しさが滲む。
やはり成城住まいのK氏は、子供時代に、引っ越してきたばかりの祖母がガレージにいた三船にいきなり話しかけたときの光景を、今でも忘れないと語る。見ず知らずの者からの突然の接触にもかかわらず、無視するどころか気さくに応じてくれた三船の‶大人の対応〟に、K氏は子供ながらも非常に感激したという(註4)。
さらなる三船の成城ストーリーは、次回で(この項続く)。
(註1)無数の矢を射られる城内のセットが設けられたのは、大蔵の高台にあった‶農場オープン〟という東宝のセット用地。当オープンには『七人の侍』の町をはじめとして、『隠し砦の三悪人』の秋月城、『用心棒』の馬目の宿、『椿三十郎』の城下町、『赤ひげ』の小石川養生所や江戸の町など,様々なセットが組まれた。
(註2)殿堂入り式典に合わせて、チャイニーズシアターで上映されたドキュメンタリー『MIFUNE THE LAST SAMURAI』で聖林の観客が大きくどよめいたのは、矢の射手が大学生であったことと、三船が『SW』のオファーを断ったことが紹介されたときの二度。
(註3)子供らが史郎さんに雪玉を投げつけたのは、三船邸をまっすぐ南に下った丹下健三邸(建築家/成城六丁目)の築山の上から。子供の中には、この正面に家があった日本民俗学の権威K・Yの孫に当たるH氏もいた。
(註4)K氏は、祖母と三船が「男は黙ってサッポロビール」の話で盛り上がっていたことと、ガレージ内にベージュのMG-TDとロールスロイスがあったことをよく憶えているという。
たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝映画に親しむ。黒澤映画、クレージー映画には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に近い成城大を選択、卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画文筆を中心に活動。『七人の侍』など、日本映画のテーマ曲を新録したCD『風姿〜忘れがたき男たち』(ラッツパック・レコード:5月発売)では作品・楽曲紹介を担当。近著として、『今だから! 植木等』(今夏発刊予定)を準備中。