1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
2021年6月、‶復帰後初ライブ〟(無観客だったが)を行った加山雄三。2019年以降いくつかの病気を経験し、療養に専念していた加山が、ライブ活動をできるまでに回復したことは誠に嬉しいことであった。放送されたライブに「若大将60年 Inside stories」とのサブタイトルが付されているとおり、‶永遠の若大将〟加山雄三がこの名を得たのは、当然ながら映画『若大将』シリーズがあってのことである。
日劇で行われた「加山雄三ショー」をもとにした『歌う若大将』(66年)や後年の『帰ってきた若大将』(81年)も含めれば、全18作に及んだこの人気シリーズ。もちろん、東宝の名プロデューサー・藤本眞澄が創作したものだが、聞けば藤本は、松竹蒲田で作られた、藤井貢主演の下町喜劇『大学の若旦那』シリーズ(33〜35年)から想を得たのだという。藤本は、慶應義塾大学出身でお坊ちゃんタイプの加山を、同じイメージの藤井に重ねたのであろう、人気作家・黒岩重吾のニックネームを拝借(註1)したうえで、東宝版‶若旦那もの〟『大学の若大将』(61年:杉江敏男監督)を誕生させる(註2)。
第1作目の本作から加山は主題歌を歌い、レコードも出していたが、まだ自作の曲ではなかった(註3)。それでも歌が得意でスポーツ万能、おばあちゃん子(お年寄りに親切)、おまけに大食い(あだ名はドカベン!)という‶若大将〟のイメージは、加山本人のキャラを採り入れたもので、これで加山はスターの座を獲得。『銀座の若大将』(62年)、『日本一の若大将』(62年)、『ハワイの若大将』(63年)、『海の若大将』(65年)と続いたシリーズは、エレキギター(バンド)・ブームを背景に作られた『エレキの若大将』(65年)で、その人気は頂点に達する(註4)。
都会派明朗コメディとでも形容すべき当シリーズ。老舗すき焼き店「田能久(たのきゅう)」の倅に扮した加山雄三(役名は田沼雄一)が、やたら歌が上手くスポーツに秀でていることで、澄ちゃん(星由里子:サラリーマンになってからは酒井和歌子の節ちゃん)を巡る‶青大将〟(田中邦衛)との恋の争奪戦に勝利する、という筋立てが貫かれていた。
大学生の雄一が通う京南大学(註5)は、初めの二作は杉並(最寄り駅は三鷹台)の立教女学院キャンパスにてロケされている。ところが、新鋭・福田純監督がメガホンを取った『日本一』と『ハワイ』では、別の大学がその撮影現場となる。これ以降、古澤憲吾監督(註6)や宝塚映画製作による数作(『海の若大将』、『南太平洋の若大将』、『ゴー!ゴー!若大将』)、それに後期の『若大将対青大将』(東京農業大学)を除いては、そのほとんどが日本大学文理学部(高井戸)キャンパスで撮影されている当シリーズだが、この二作だけはどうした訳か世田谷の成城大学(成城学園)が京南大学に見立てられている。
1962年撮影・公開の『日本一の若大将』は、出演した黒澤映画『椿三十郎』ネタが仕込まれた『銀座の若大将』のヒットを受けての第三作目。タイトルからもその期待の程が見て取れる。マラソン部に属する雄一が通う京南大の正門は、東宝の美術スタッフによる、いかにも大時代的な作り物だが、後方に写るキャンパス風景はまさに成城大学のもの。そこには1958年に新築されたコンクリート製校舎「1号館」や創立者(澤柳政太郎)の銅像などがはっきりと写っており、現役学生や卒業生ならたちまち母校と分かったに違いない。