1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
‶日本のビバリーヒルズ〟と呼ぶべき地、成城。現在ではタレントや文化人が住む街といったイメージが強いが、黒澤明、三船敏郎、司葉子らに代表されるように、かつて当地は紛れもなく‶映画人の街〟であった。その理由は、もちろん東宝撮影所(現在では「東宝スタジオ」と呼称)があるから、が正解だが、では、そもそも東宝(P.C.L.)は何ゆえにこの地に撮影所を設けたのか――。その起源についてご存知の方は、あまりいらっしゃらないだろう。
元々は写真現像に関する研究開発を行うための‶匿名組合〟だった「写真化学研究所」(Photo Chemical Laboratory:丸ビルの一室にあった)が、日活からの要請を受け、――あくまで副業として――トーキー=発声映画の撮影・録音の請負と技術開発を進めるべく、1931年に新たな拠点としたのが、現在の成城、当時の砧村であった。1932年にはトーキー用の大ステージも完成。ところが、日活が別のトーキー・システムを採用したことから、P.C.L.はやむなく自社製作の道を選択、これが現在の東宝へと発展していったことは、日本映画を愛好する方にはよく知られた話であろう。
さて、P.C.L.の初代社長を務めた植村泰二(うえむらたいじ)には、可愛がっていた娘=泰子さんがいた。教育方針に共感した成城小学校へと入学させ、当初は駒込の自宅から1時間半もかけて通わせていたものの、病弱だった泰子さんが遠方の小学校に通うのは可哀そうだと、植村は自宅と共にP.C.L.施設もこの地に移してしまうという驚くべき決断を下す(註1)。
なんとも意外な移転理由だが、もしも植村の子女が成城小学校に入っていなければ、P.C.L.という会社がこの地に移転することはなく、本来なら静かな学園都市たる成城が映画人の街になることもなかったわけだから、歴史の不思議・偶然を感じざるを得ない。
さらに言えば、もし当地にP.C.L.の撮影所が出来ていなければ、黒澤明と本多猪四郎が監督になることも、『七人の侍』や『ゴジラ』(註2)が作られることもなかったかもしれず、この‶家族ファースト〟による会社移転は、その後の日本映画の行方をも大きく変える歴史的重大事だったことになる。
上掲写真からも見てとれるように、当時の砧村、特に小田急線の南側は、雑木林(御料林)(註3)と麦畑が広がる荒涼とした土地であった。昼間は林から出てきたイタチが道をうろうろ、夜はフクロウが鳴くという人里離れたところに、いきなりこのような巨大ステージが出現したわけだから、周囲の住民たちが〝白亜の殿堂〟と形容したのも当然のこと。やがて当地には、役員の植村(註4)と増谷麟(註5)のほかにも、P.C.L.の映画人たちがポツポツと住み始めるようになる。
すでにこの地に居を構えていた文化人には、成城学園に子女を入学させた父母、平塚らいてふ、北原白秋、富本憲吉(子息の壮吉はのちに映画監督となる)などがいたが、ここに加わったのが大川平八郎、岸井明、英百合子、千葉早智子、高田稔、月田一郎(山田五十鈴と結婚)などのスターたちに、山本嘉次郎、成瀬巳喜男といった監督たち。こうして撮影所周り(小田急線南側の地)は、にわかに‶映画人村〟の様相を呈していくが、それまで静かに暮らしていた先住の人たちにとって、生活感覚の異なる彼ら映画人は、何かと物議を醸す存在であったようだ。ちなみに、天才子役ともてはやされた高峰秀子も、松山善三と結婚するまでは長らく当地、成城の住人で、この家には市川崑が同居していたこともあったときく(註6)。