岡田裕介から、東映5代目社長をやれと言われたとき、とんでもないと思った。岡田裕介と私は同じ年齢で、世代交代もできないわけである。岡田茂が、後継者は10歳下の者にしなければだめだとよく言っていた。私がまだ北海道支社長だった頃、支社長の後継者には10歳若い人物を選べと、岡田茂から言われていたのだ。同じ年代だとライバルになって必ず争いが起こり、権力争いになる。20歳下だとまだ、人材として育っていない。10歳下くらいがちょうどいいのだ、というわけである。だから、どうして同じ年齢の私が、という思いしかなかった。〝世代交代なき社長交代〟と思わず口をついて出るほど、私にとって青天の霹靂だった。ちなみに、手塚治東映6代目社長(2023年2月11日逝去※)は、私の11歳年下である。岡田裕介としては、自分はもう12年務めたから代替わりしなければいけないという、それだけの考えだったように思える。
だが、岡田裕介からは、想像はしていただろう? と言われた。この人は何を言っているのだと思ったほど、まったく考えられなかった社長就任だった。どうやら岡田裕介は、私の社長就任に関して、社内の人間はじめ、業界やマスコミ関係の人たち訊きまわっていたらしいのだ。知らなかったのは私だけだった。周囲の声が私の耳にも届いていたと思っていたようだ。
今にして思えば、総務に異動になったのは、会社全体を俯瞰で見渡す機会を与えられていたのかもしれない。東映という会社を俯瞰で見るために、まずは総務を統轄しなければならないと、岡田裕介は考えていたのかもしれない。秘書部長というのもほとんど社長の相談役で、社長に直接言えない社内外の相談事は私を通して社長に進言されていた。岡田裕介の社長秘書という役回りだった。そんな役目は、私が最初だったと思う。スケジュールを管理することは一切しなくていい、おまえにできるわけはないと言われていて、いわゆる政策秘書的な任務だった。私は、岡田裕介の思惑も知らないままに、当時は、秘書部長、総務部長と、その務めを果たしていただけだった。
私が社長に就任した2014年、東映は絶好調の時代だった。それ以前からシリーズ化されていたテレビドラマの「相棒」(連続ドラマとしては2002年~)、「科捜研の女」(1999年~)などの作品がすべて当たっていた。圧倒的に強かった。岡田裕介は、映画製作をやめたら東映は超一流会社だな、と自虐的に言っていた。映画で当たったのは特撮映画『仮面ライダー』シリーズ。14年だけでも『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦feat.スーパー戦隊』『劇場版 仮面ライダー鎧武(ガイム)サッカー大決戦! 黄金の果実争奪杯!』『仮面ライダー×仮面ライダードライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル』の3作が公開された。当時の東映の劇場映画では、『仮面ライダー』だけで食っていたと言えるほど当たった。年に1作品くらい大当たりした実写映画もあった。2005年の『男たちの大和/YAMATO』は興行収入50億超で、その年の邦画興行収入のトップだった。