一方、キングレコードでは、人気が出てきた三橋美智也をもう一段押し上げようとカップリング・レコードが企画された。A面に三橋美智也の「君は海鳥渡り鳥」(作詞・矢野亮、作曲・真木陽)、B面にすでにスターダムにのし上がっていた春日八郎を起用するという業界でも初めての豪華な企画だった。だが、春日の楽曲が決まっていない。キングレコードの山とあったお蔵入り作品から、厳格な選考を経て高野と船村がつくった「泣けたっけ」が選ばれる。その題名は「別れの一本杉」と替えられてレコーディングされたのである。
船村徹は「私の履歴書」(日本経済新聞社、平成14年)で、こう書いている。
「私にとっても(作詞の)高野にとっても、栃木と茨城は遠い遠いふるさとだった。望郷の念はときに胸を灼いた。だがこのままでは帰れない。帰りたくとも帰るわけにはいかない。高野の詞には、故郷を離れて都会で暮らす人々の思いが実に巧みに、実に素直に語られていた」
しかしお蔵入りだった若いコンビの作品が世に出るという僥倖も束の間、高野公男は病床にあった。辛うじてヒットを知った高野だったが、結核を罹っていた。ヒット曲にあやかろうと、高野公男の生涯と楽曲の情景をモチーフに翌1956年6月に松竹は曲名と同じ題名の映画化を決定、撮影に入っていた。実名主演の高野公男役は川喜多雄二。また春日も劇中に歌手として出演した。
少々長いが「私の履歴書」の船村の文章を借りて映画「別れの一本杉」を再現する。
「神経痛に苦しむ老母と妹と高野の三人家族。父親はすでに亡くなっている。高野は石切り場で仕事をしながら作詞家を目指していた。高野には恋人がいた。父が残した借金を返さなければならなかった高野は貧しく、彼女と会うのはいつも道端の一本杉の下だった。ところが恋人の姉が嫁ぎ先で亡くなった。その土地では姉が亡くなると妹が後添えになるしきたりだった。彼女の父親は裕福な男の後添えになることを強要する。そのころ高野の詞が作曲家〝船木〟の曲を得てレコーディングされた。船木から上京を促され、高野は迷った末に東京に行く。残された恋人はとうとう周囲の圧力に抗しきれず姉の夫だった男の後添えになる。高野は胸を病んでいた。ついに入院し死出の旅についた高野を見舞った船木に、高野は詞を聞かせる。「別れの一本杉」という詞だった。病床の窓を通して届く恋人の婚礼の行列の音。そして「別れの一本杉」の新曲発表の日が来た。ステージで歌う春日八郎。事情を知っている聴衆はハンカチを目に当て、会場からすすり泣きが漏れる。やがて春日も鳴咽して………映画は終わる。
虚実は混じっているが、それは紛れもなく高野公男の短い人生を描いた物語であり、このような映画が作られたということは「別れの一本杉」という作品が一時的であれ社会現象になっていたことを示している。いまのように曲が爆発的に売れ、しかし信じられないような早さで忘れられるような時代ではなかった。一曲一曲が大事に、切実に人々の心に届いた時代だったのである。」(文中「船木」は船村徹)
しかし、映画を観ることができないまま1956年に9月8日、高野公男は26歳で亡くなった。
文:村澤次郎(ライター) イラスト:山﨑杉夫
アナログレコードの1分間45回転で、中央の円孔が大きいシングルレコード盤をドーナツ盤と呼んでいた。
昭和の歌謡界では、およそ3か月に1枚の頻度で、人気歌手たちは新曲をリリースしていて、新譜の発売日には、学校帰りなどに必ず近所のレコード店に立ち寄っていた。
お目当ての歌手の名前が記されたインデックスから、一枚ずつレコードをめくっていくのが好きだった。ジャケットを見るのも楽しかった。
1980年代に入り、コンパクトディスク(CD)の開発・普及により、アナログレコードは衰退するが、それでもオリジナル曲への愛着もあり、アナログレコードの愛好者は存在し続けた。
近年、レコード復活の兆しがあり、2021年にはアナログレコード専門店が新規に出店されるなど、レコード人気が再燃している気配がある。
ふと口ずさむ歌は、レコードで聴いていた昔のメロディだ。
ジャケット写真を思い出しながら、「コモレバ・コンピレーション・アルバム」の趣で、懐かしい曲の数々を毎週木曜に1曲ずつご紹介する。