女性への恋慕にめざめる年齢は、ふつう何歳からなのだろうか。ふつうとは世間並み、平均と言っていいだろう。中学生になってからか? いや、少なくともボクは小学生の分際で、女子に思いを寄せていた。早すぎやしないか? ふつうじゃないぞ! と自虐的に自問自答をしてみたが、でも、1961年(昭和36)飯田久彦が歌う「悲しき街角」は小学6年生の心に深く楔(くさび)を打っていたのだった。静かな歌い出しは甘い声でどこか舌足らずの少年が歌っているように聴こえた。失恋の歌であることは確かだが、リズム感は日本の流行歌ではなかった。彼女と初めて出会ったのは組替えになった3年生の新学期で、小学6年生までずっと片想いの日々を経て、卒業間近、どうしてあの子と会えないのだろう、と漣 健児の訳詞にはじめて泣いた。街角で別れた、彼女はあのまま遠く仙台に転校してしまったのだった。この年、坂本九の「上を向いて歩こう」がリリースされ流行りはじめていた。失恋の悲しみを永六輔だって「上を向いて歩こう」と耐えていたのだ。
「悲しき街角」は飯田久彦さん(なぜ敬称にするか後述)の日本コロムビアからのデビュー曲だったが、原曲はデル・シャノンのカバー。それまでの日本の流行歌では聴いたことのないような楽曲だった。後年、ポップス界のリーダー・大瀧詠一は某音楽雑誌で「デル・シャノンの第一作の『悲しき街角』が、全米はもとより日本でもヒットしたが、この曲が60年代以降の日本のポップス―洋風(と日本人が感じる)な歌謡曲―のベースになった、というのが私の見方である。」という意味のことを書いているのを発見した。当時は洋楽ともいわずアメリカン・ポップスなんて言葉も知らなかったが、ただ、エルヴィス・プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカ、などなど怒涛のようにアメリカの歌が輸入されてきた時代だった。
ふたつ上の姉はすっかり〝洋風な歌謡曲〟にはまっていたせいか、英語で歌うことを良しとしていた。だから、ふた言目には、「英語で歌いなさいよ」と訳詞されたカバー曲は無視していた。雑誌『平凡』の別冊附録に洋楽だけの歌詞本があって、アルファベットの歌詞にカタカナのルビがふられていた(と記憶している)。
当時の飯田久彦さんの顔をはっきりと記憶しているのは、ロイ・ジェームスという外国人が流暢な日本語で司会するNETテレビ(テレビ朝日)の「象印 歌のタイトルマッチ」という番組だった。すでに大ヒット曲だった「悲しき街角」から、しばらくすると「ルイジアナ・ママ」に代わっていったが、姉はすっかり飯田さんに夢中になっていた。今思うと、飯田さんは甘い声と優しそうなベビーフェイスの面立ちで、若い女子たちに人気があった。テレビの画面にかじりついていた姉の姿が忘れられない。
ところが、この2曲の後のヒット曲がつづかなかった。あっという間にお茶の間から遠ざかってしまった。そして10数年を経て1976年(昭和51)頃だったか、日本テレビの人気番組「スター誕生!」に飯田さんが映っているではないか。素人のど自慢ながら新人歌手を発掘するいわば公開オーディション番組風の「スタ誕」は、レコード会社や大手芸能事務所などのスカウトたちが目を光らせる番組でもあった。ビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)を代表してスカウトマンになっていたのが、飯田さんだったのだ。立派に音楽業界に生き残っていたのである。