23.06.22 update

因幡 晃の「わかって下さい」60万枚の大ヒットの陰に、切ない思いを自らに重ねて涙する意外な人々がいた

 ダミ声のオヤジの一曲が終わって、束の間店内は静まった。「次は誰? あなたね」とママは、店内の中央にあるピンスポが当たる円い小さなステージにいざなう。目の前にはイメージ映像と伴奏とともに歌詞をなぞってくれるモニターがある。「『わかって下さい』どうぞ~!」ママの声がひときわ大きい。ボクの十八番の伴奏が聴こえてくる。作詞・作曲:因幡晃、編曲:クニ河内、静まり返った店内に荘厳なバロック音楽を思わせるようなパイプオルガンの序奏が響きわたる。名曲の予感か、酔客もしばし耳を傾けて沈黙する。足しげく通った40年以上前の新橋のカラオケバーの光景である。

 さて、因幡晃が「わかって下さい」をひっさげてディスコメイトレコードからシングルデビューしたのは、1976年2月、21歳のときだった。前年の第10回ヤマハポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、第6回『世界歌謡祭』でも入賞。シンガーソングライターとしての下積みもなくいきなり大ヒットし、60万枚を売り上げたと記録されている。1954年(昭和29)青森県大館市に生まれた彼は秋田県立大館工業高校を経て花岡炭鉱の鉱山技師として就職した。技師といっても過酷な労働の炭鉱夫と大差ない日々を送っている。工業高校2年の時にギターを初めて手にし、社会人になって交際するようになった女性と泣く泣く別れなければならなかった体験を詞に託した。彼女のことが忘れられなく、いつも頭の中にその面影があった。気持ちの整理をつけようと、彼女がどんな思いだったかを追い続けた結果生まれたのが、手紙形式でつづられた「わかって下さい」の世界だった。21歳の若者が仕事の合間に初めて作った曲でデビュー、いきなりレコードが売れ、生活が一変したことだろう。当初は炭鉱で働きながら歌うつもりだったが、売れっ子になったシンガーソングライターにそれは難しかった。異色の経歴だが、時代は彼をアーティストへの道を進ませた。

 1970年代はそれまでの演歌調の歌謡曲から徐々にフォーク調が歌われる時代に突入していた。「わかって下さい」が発売された1976年もまた、フォーク調の楽曲が大ヒットを続けていた。中島みゆき「時代」、研ナオコ「あばよ」、荒井由実「翳りゆく部屋」、「あの日にかえりたい」、グレープ「無縁坂」、野口五郎「針葉樹」、西城秀樹「君よ抱かれて熱くなれ」、小椋佳「めまい」、イルカ「なごり雪」、中村雅俊「俺たちの旅」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」などなどが続き、日本中のサラリーマンたちが子門真人の「およげ!たいやきくん」を叫ぶように歌って溜飲を下げた年だった。さかのぼること1973年9月、井上陽水は「心もよう」で大ブレーク、やはり手紙をモチーフにして哀しい女心を歌いあげている。「黒いインクがきれい~、青い便箋が悲しい~」という詩に接したとき、誰もが新鮮なフォーク・ソングの潮流を感じ取っていたはずだった。そこにアコースティックギターを抱えて因幡晃は、「涙で文字がにじんでいたら」と歌ったのだった。

 心もよう、わかって下さい、ともに失恋の歌である。

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