「花嫁」のヴォーカルは藤沢ミエ、端田は伴奏のギターとともにサビの部分でハモるヴォーカルを担当。実は、当時のボクは、「帰って来たヨッパライ」の早回しのくぐもった声が端田のものと思っていたせいか、背も低く愛嬌のある童顔がどことなく不気味に見えていた。ギターは石川鷹彦(グループ外のギタリスト)が弾いていたが、テンポのいいこの曲のキーワードは、夜汽車、海辺の街へ、帰れない、何があっても、命かけて燃えた恋が、何もかも捨てた、小さなカバンにつめた花嫁衣裳……、と実は夜汽車で約束した男のもとへ旅立つ女子の一途の恋、駆け落ちを描いたものである。確かに駆け落ちといえばそれまでテーマとしてはタブーで暗いものとされていて、演歌の題材だったはず。それをテンポよくさわやかで明るく前向きに表現したことが、大ヒットにつながったのだろうとボクは解釈している。
シングル盤のジャケット内側にはメンバーのプロフィールが記載されているが、たとえば、はしだのりひこの身長が「1ミクロ」、体重が「0.5mmg」などと表記され、ユーモア溢れるおふざけ好きの一面が浮かび上がってくる。京都で生まれ同志社大学神学部に8年通い2年休学、都合10年をもって退学したというエピソードを聞いて、親しみを感じたものだった。
2017年12月2日、端田宣彦は72歳で永眠した。ある追悼記事によると、2008年に先立った妻の和子さんとの夫婦愛が「花嫁」のモチーフだったと紹介されていた。二人が出会ったのは、端田17歳、和子さん15歳、高校のクラブの夏合宿だったという。2回も停学になるような問題児の端田だったが「音楽のできる面白い奴」でひょうきん者人気者だったに違いない。そんな彼を一目見て、和子さんは恋に落ちたのだ。その後、端田は歌手として全国を飛び回るようになっていた。10年を経て二人は交際を実らせ結婚。役所に届けただけ、披露宴などできなかった。「花嫁」が売れて端田は新婚生活どころではない。当時、和子さんは自分の歌だと思った。夜汽車に乗って端田のいる公演先まで行くこともあったという。「花嫁」が世に出た翌年の72年のことである。「命かけて燃えた恋が結ばれる」と、北山の歌詞が現実のものとなった。「花嫁衣装」は着られなかったが、和子さんは満足だった。大腸がんで9時間に及ぶ大手術、決して順風ばかりではなかったが、和子さんの一途な気持ちは「花嫁」そのものだった。
端田は、妻の看病に専念したということから「主夫」としての活動が話題になったこともあった。主夫としての体験記を雑誌に連載し、これが後に『おとうさんゴハンまーだ』という本にまとめられ、『風のあるぺじお』の題名で映画化もされた。
さて、1971年がエポックメーキングなどと大仰にこだわったのは、この年の秋分の日、ボクの下に花嫁がやって来たのである。
文:村澤 二郎 イラスト:山崎 杉夫