この歌を初めて聴いてからしばらくの間、輸入洋楽のアメリカン・ポップスだと思い込んでいた。いきなりニューヨーク五番街が舞台の〝訳詞〟は、きっと漣健児あたりに違いないと一人合点していた。リリースされた1973年(昭和48)頃は仕事に追われて、たとえ美しい楽曲、いい歌だなとインプットされても、作詞、作曲が誰かなど後回し。男と女の哀しげな物語が美しいメロディとともに映画のシーンを見ているような訳詞だけが刻まれていた。まずはカラオケの〝指名〟に応えるために覚えようと何度も「五番街のマリーへ」を歌い込んだものだった。大ヒット曲ではあったが、いきなりヒットチャートに躍り出たわけではなくスロースタートだったせいか、伴奏が始まると、酔客仲間が「ほぉー」と感心した。耳慣れないアメリカン・ポップスのバラードを歌い出せば、羨望の視線が集まったような気がしていた。(この長い歌詞の楽曲を歌い上げるのは、結構難しかった)
作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一を知ったのは、ずっと後のことだった。1984年(昭和59)、筆者は取材旅行でニューヨーク、マンハッタンの五番街をうろうろしていた。現地の総合商社さんのアテンドで、アメリカで勃興していたヘッドハンター業(エグゼクティブ・サーチ・ファーム)を軒並み訪問。間もなく日本でも転職が当たり前になり人材の流動化がすすむ、というレポートを書くためだった。日本から来た雑誌記者に対して商社マンの皆さんは親切に対応し接待してくれたが、夜はニューヨークではまだ珍しかった日本人相手のカラオケバーに誘われた。自分たちが気持ちよさそうに日本の歌謡曲を歌い終えると、「それではどうぞ」と来た。歌詞カードをあれこれ迷いながら「五番街のマリーへ」を探し当てリクエストすると、大きな拍手が沸いた。驚いたことに、歌いはじめると間もなく、バーにいた数人の客たち(ほぼ日本人)が一緒にハミングし歌い出すではないか。そうか、彼らは「五番街」を毎日のように行き来していたのだ。それだけならまだしも、単身赴任者にとっては、日本に残してきた妻(マリー)や幼いわが子が「どんな暮らししているのか」思いめぐらして、歌っていたのではないだろうか。
リリースから10年後のエピソードだが、「五番街のマリーへ」が日本人ビジネスマンのレパートリーとして浸透していたことに、感心もし、驚きもしたことだった。というより、作詞家・阿久悠の詩が、遠く離れて暮らす駐在員たちにとっては、〝日本の歌〟だったのである。「阿久悠という人は、いい詞を書くねぇ」と、一人が言うと皆が頷いた。「五番街」を歌い終わってマイクを渡した若き駐在員は私をアテンドしてくれていた男で、「先にヒットしたのはこっちなんですよ」と言って、「ジョニイへの伝言」を歌ってくれた。同じ1973年にヒットさせたペドロ&カプリシャスのメーンヴォーカル、高橋まり(当時)の大ファンだという。(高橋まりは1978年(昭和53)にペドロ&カプリシャスを脱退し、髙橋真梨子としてソロ活動を開始しているのは周知の通り。)
その後はひとりずつのリクエストが次から次へ続いた。思い出せば、「青春時代」、「舟歌」、「北の宿から」、「また逢う日まで」、「勝手にしやがれ」、「津軽海峡・冬景色」、「もしもピアノが弾けたなら」、「時の過ぎゆくままに」、「契り」とつづき、仕舞には、「UFO」、「ペッパー警部」を歌ったのはちょうど年頃の娘さんがいるからと言い訳した男だった。…すべて阿久悠作詞の大ヒット曲が、ニューヨークの五番街の外れのカラオケバーで夜更けまで間断なく大合唱されたのだった。
「ジョニイへの伝言」も「五番街のマリーへ」も、古いアメリカン・ポップスのテイストを感じさせ、70年代の音楽シーンには新鮮だった。10年後に訪れていた五番街は、Fifth Avenueまたは5th Avenueと方向指示の矢印のような看板に表記され、マンハッタンをほぼ南北に走る大通りで、有名ブランドショップが並びパリのシャンゼリゼ通りを思わせる世界最高級のショッピングセンターのようだった。日本の地方都市にもある「〇〇銀座」と同じように、世界のあちらこちらの五番街を名乗るショッピングセンターなどの本家はニューヨークのことなのだ。初めてニューヨークに立っている、そして「五番街のマリーへ」を歌った興奮は、40年を経た今もはっきりと記憶している。