さて、歌うペギー葉山は、すでに昭和29年ジャズ系歌手としてレコードデビューを果たし、3年目から毎年NHK紅白歌合戦に出場しているほど押しも押されもせぬ地位にあった。その魅力あるアルトの声は日本の女性のジャズ歌手の中でも定評があった。一方、「南国土佐を~」はすでに丘京子盤、鈴木三恵子盤がリリースされていたがことさら話題になることもなかった。ところが昭和33年の初秋のこと。NHKからの出演依頼にペギーは仰天する。「まさかこれを歌えって…?!この民謡のような『南国土佐を~』なんかとても歌えない、だいいちコブシが回らない」とNHKの異色の音楽プロデューサー、妻城良夫(つまきよしお)の依頼を拒否したのだった。しかし、舞台はNHK高知放送局開局記念番組『歌の広場』が準備されていた。妻城は、「ペギーさん、ジャズのフィーリングで歌ってほしいんですよ。コブシなどいらない、アルトの声のまま、ペギー節で歌ってください」(同書)と執念もあらわに口説いた、という。歌唱を辞退するペギー、何としても歌ってもらいたい妻城の〝攻防〟は一カ月に及んだ。
とまれ昭和33年12月8日、皇太子殿下のご成婚発表直後の日本中が沸き立っていた頃高知放送局開局記念番組でペギー葉山の「南国土佐を~」第一声は、生放送でNHKのラジオとテレビの電波に乗って全国に知れ渡り、先述のように翌年(昭和34年)にはリリースされ、第10回NHK紅白歌合戦でもこの楽曲で出場、空前の大ヒット曲となった。この大ヒットを受けて同名の日活映画が小林旭主演で製作、公開、ペギーも出演し歌唱している。本作がヒットしたことがきっかけとなって、小林旭主演による『ギターを持った渡り鳥』に始まる「渡り鳥シリーズ」の製作が開始され小林旭は日活の看板スターとなっていく。後年、ペギーは、「もし鯨部隊のことを知っていたら、快くオファーを受けていたでしょう」と語っているが、オペラ歌手を目指した妻城プロデューサーの音楽的な閃きと執念が生んだ最高傑作といえよう。
こうしてペギー25歳にして代表作とともに歌謡界の王道を歩みはじめ、「ドレミの歌」「学生時代」「空よ雲よ風よ」等々、ヒット曲を連発している。1974年には司馬遼太郎に続き、2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られている。また、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には高知市のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席。よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)では、名前を冠した〈ペギー葉山賞〉が優秀チームに贈賞されている。
1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。2007年6月からは、社団法人日本歌手協会7代目の初の女性会長に就任し、2010年6月末日まで務めた。その後同協会理事としての業務、亡夫根上淳の介護体験を講演するなど、デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けたが、2017年4月12日、肺炎により死去。享年83。
恥ずかしながら、「わが昭和歌謡はドーナツ盤」という小さなコラムでは、この大ヒット曲のルーツから変遷してゆく全貌までを著すことに限界があることを承知で書き始めたが、案の定、門田氏の著書のほんのサワリに触れるだけが精一杯。安倍寧さんのお陰で知り得た著作、『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(門田隆将著・角川文庫)の一読を併せてお勧めする。
文=村澤 次郎 イラスト=山﨑 杉夫