「越冬つばめ」は、1983年8月21日リリースの41枚目のシングルである。作詞は石原信一、作曲は篠原義彦、編曲は竜崎孝路である。アレンジャーの竜崎はキャンディーズの「ハートのエースが出てこない」や中条きよしの「うそ」、美空ひばりの「川の流れのように」などもあり、森昌子の曲では「哀しみ本線日本海」や「春のめざめ」などの編曲も担当しているが、作詞の石原信一、作曲の篠原義彦は「越冬つばめ」が初めてで、異色の組み合わせだった。石原信一は詩人のサトウハチローに師事し、放送作家、フリーライターを経て作詞家になった。78年、女子プロレスのビューティーペアの「かけめぐる青春」で日本レコード大賞企画賞を受賞している。作曲の篠原義彦は、「夢想花」を歌った円広志の本名である。映画『禁じられた遊び』をみてアコースティックギターを手にしたことから音楽に目覚め、その後大学時代は友人とロックバンドを組んだりしたが、曲を作りながらコンサート警備のアルバイト暮らし。たまたま世良公則&ツイストの凱旋コンサートの警備をしていたときバンド時代に知り合ったヤマハポプコンの関係者と出会う。「夢想花」のデモテープを送ると、ポプコンに出場することになり、あれよあれよという間に地方大会を勝ち抜き、78年ヤマハ世界歌謡祭のグランプリを受賞する。「とんで、とんで、まわって、まわって」という耳に残るこの曲は大ヒットしたが、その後が続かない。くすぶっているときレコード会社から「越冬つばめ」の作曲を依頼された。起死回生の意気込みで臨み一発屋のイメージを拭うため作曲者名は本名にしたという。
歌う森昌子は、24歳。まさに女ざかり。レコードジャケットの写真もきれいだが、YouTubeで当時の映像を見るとセミロングの髪型で、ロングドレスを着こなし、大人の女性の色香が漂う。
この曲を忘れられないものにしている、つばめの啼き声「ヒュールリー ヒュールリー ララ」は、冬の冷たい風の音と重ね合わせたのだろう。しかも耐え忍ぶ女の心を、森のよくとおる声が寂しさを募らせる。悲恋の短編映画を見るような情景が浮かんでくる「越冬つばめ」は、まさに昭和歌謡の名曲中の名曲だと思えるのだ。「亡骸になるならそれもいい……」と目を真っ赤にして歌う姿に万感胸に迫るものを感じさせる。それまで歌手として野心を感じさせずどちらかというと冷めていた森昌子自身に、「越冬つばめ」による第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞の受賞は、歌手として生きる覚悟ができ、素直に喜ぶことができるものだった。
デビュー曲「せんせい」から、86年8月21日リリースの引退記念曲「~さよなら~」(阿久悠作詞・遠藤実作曲)までの14年間にシングル50曲をリリースしたが、人気絶頂だった27歳のときに結婚し、あっさり引退してしまった
美空ひばりからは、「マチャコ」と呼ばれて可愛がられ、自分の後継者だとも言わしめた歌唱力だった。しかし、森進一とのデュエットコンサートで一度は復帰したものの20年近くのブランクを埋めるのは歌唱力のある森昌子でも大変だったようだ。
息子3人の母親になり、兄弟同士でも兄には敬語で話させ、「三つ子の魂百まで」の言葉通り体罰もいとわず、18歳になったら独立させるというスパルタ式で育てた子供たちは、長男は「ONE OK ROCK」というバンドのボーカル、次男は会社員、三男は「MY FIRST STORY」のバンドボーカルで活躍している。
「私、森昌子は歌手を生業にしておりますが、自分の一生を賭けた仕事は子育てです」と胸を張って言える森昌子は、素敵な女性だと思う。でも、わが母のようにまた紅白で歌う姿をみたいというファンがいることも伝えたい。願わくば、「越冬つばめ」を歌ってほしい。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫